SSブログ

38-3.書紀述作者の鍵は『金光明最勝王経』 [38.日本書紀の述作者は誰か]

『書紀』の仏教伝来の記事が、『金光明最勝王経』をもとに記述されていることは、明治時代から明らかにされている。大正14年に「欽明紀の仏教伝来の記事について」を発表した藤井顕孝氏は、『金光明最勝王経』が日本へ伝来した機会は3回あるとした。

 1)慶雲元年(704年)7月、遣唐使執節使粟田真人の帰国

    2)慶雲4年(707年)5月、学問僧義法・義基等が新羅より帰国
    3)養老2年(718年)12月、道慈が遣唐使とともに帰国 

井上薫氏はこれら一つ一つを吟味して、昭和18年に発表した「日本書紀仏教伝来記載考」で、義浄が漢訳した『金光明最勝王経』を日本にもたらしたのは、養老2年(718年)12月に遣唐使船で帰国した道慈であると唱え、それ以後この説が定説化され、『書紀』の仏教関係の記事の述作に道慈が関わったと考えられるようになった。 

近年「道慈と『日本書紀』」の論文を発表した皆川完一氏は、道慈が『金光明最勝王経』を日本にもたらしたという直接的史料はなく、状況証拠による推論である。大宝律令制定以後は、政務に関わるには官人でなければならず、僧侶の道慈が政務の一環である『書紀』の編纂に参画するようなことはありうるはずはないと述べている。そして、『金光明最勝王経』その他の仏典を用いて『書紀』の文を述作した人物は、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であるとして、粟田真人と山田史御方をあげ、山田史御方を一押している。 

私は、森博達氏・藤井顕孝氏・井上薫氏・皆川完一氏のそれぞれの意見より、『書紀』α群の述作者B1は、『金光明最勝王経』と関わりがあった者で、長期に渡って唐に留学した倭人で正音・正格漢文が書け、そして、かつて僧侶として仏典を学び、後に還俗した人であると考える。
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 2

いしやま

720年 日本紀 続日本紀記載 これは日本書紀とは違うという考証があります。
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年「日本紀」は 「日本書紀」と読み替えることができるのか、について論証されています。
嵯峨あたりで改竄しているようです。




by いしやま (2014-01-11 19:40) 

いしやま

以下すべて引用です、申し訳ないですが。
法隆寺 玉虫厨子
捨身飼虎図が有名 その画題は金光明経に基づくものされている様子、 『金光明最勝王経』には,多くの釈迦の前世の修行の物語が散りばめられています。釈迦自身が自分の前世を語るという設定になっています。もっとも良く知られているのは「捨身品」の「捨身飼虎(しゃしんしこ)」のモチーフです。釈迦の前世の一人,薩?(さった)王子が,虎の母子を救うために自分の身を犠牲にしたという物語です。
703年に唐の義浄によって漢訳され,わが国に舶載された『金光明経』によるものなども知られる。『金光明最勝王経』が漢訳されたのは703年であり、持統朝より後である。
728-戊辰-神亀05年12月27日 聖武天皇が、「金光明経」10巻ずつ計640巻を諸国に与える
+++++++とすれば、金光明経はこの時点で最新の情報のはず
673 天武2年 大官大寺を建立する。
天武天皇2年(673)、大和川原寺で一切経を書写。5年、諸国に金光明経・仁王経を説かせ、
 諸国で金光明経・仁王経を説かせる前年の4年(675)、竜田に風神を、広瀬に大忌神を祀らせている。この二つの社も壬申の乱の折、勝利を祈願した社である。天武帝は竜田、広瀬の神祀りを新時代の神道の柱にしようとしていた節がある。
天武5年 「金光明経」と「仁王経」を四方の国で説かせる。
天武9年 倭京内の二十四寺および宮中で「金光明経」を説かせる。
天武14年 諸国に、家毎に仏舎を作りて、乃ち仏像および経を置きて、礼拝供養せよ。
・天武4年に初見となる「金光明経」に『帝王神権説』が認められるといい、
 『国王がもつ尊貴身分は、天(神)から付与される故に、国王は人ではなく神であるとする。もともと物をいわず、姿をあらわさない倭の一般の神と異なり、光りかがやく姿をもち、言葉を発する天照大神の出現には、仏教の示唆があったと考えられる』(東アジアの古代文化 118号)とある。
  これらはすべて文飾となるものでしょうか。


by いしやま (2014-07-19 08:21) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。