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38-1.日本書紀を科学した森博達氏 [38.日本書紀の述作者は誰か]

奈良時代のはじめ養老4年(720年)に、舎人親王により撰上された『日本書紀』は、日本の最古の正史であるが、『書紀』を実際に執筆した人物は明らかになっていない。『書紀』を科学的に分析されたのが、『日本書紀の謎を解くー述作者は誰がー』(1999年 中公新書)を書かれた森博達氏だ。氏は漢文で書かれている『書紀』の言葉と表記(音韻・語彙・語法)を分析し、『書紀』30巻をα群・β群・巻30に三分した。α群は唐人が正音・正格漢文で執筆し、β群は倭人が倭音・和化漢文で述作したとしている。α群に属しているのは、巻14の雄略紀から巻21の崇峻紀までと、巻24の皇極紀から巻27の天智紀までで、β群に属しているのは、巻1・巻2の神代、巻3の神武紀から巻13の安康紀、巻22の推古紀・巻23の舒明紀、巻28・29の天武紀としている。そして、巻30は最後の持統紀である。 

また、森博達氏は『書紀』に記載された暦日が、神武紀から安康紀までが、文武2年(698年)から単独で施行された新しい「儀鳳歴」で書かれ、雄略紀から持統紀までが古い「元嘉歴」で書かれている事に注目し、唐人が正音・正格漢文で執筆したとするα群は、持統朝に書かれたとした。そして述作者は、巻14の雄略紀から巻21の崇峻紀までが唐人の続守言で、巻24の皇極紀から巻27の天智紀までが唐人の薩弘恪であるとしている。 

続守言は660年の唐と百済の戦いで百済の捕虜となり、661年に献上されて来朝した唐人である。薩弘恪も唐人であるが、我が国に来た経緯は不明である。続守言・薩弘恪は共に音博士(漢音による音読法を教える)として朝廷に仕え、両者は共に、持統3年(689年)には稲を賜り、持統5年(691年)には銀20を賜っている。文武4年(700年)に「大宝律令」撰定の功により薩弘恪は禄を賜っているが、続守言の名は無い。続守言はそれまでに、引退もしくは死亡したものと見られている。 

倭人が倭音・和化漢文で述作したとするβ群(神代、神武~安康紀、推古・舒明紀、天武紀)は、文武朝に山田史御方により書かれたとしている。特に、β群の巻22の推古紀と巻23の舒明紀がα群に挟まれているのは、続守言が巻14の雄略紀から巻21の崇峻紀までを執筆した所で亡くなったため、続守言に代って山田史御方が書いたからだしている。山田史御方は学僧として新羅に留学し、帰国後還俗して大学で教え大学頭となっている。また、文章に優れ、文武天皇の慶雲4年(707年)には「優學士也」として褒賞されている。β群は仏典や仏教漢文の影響を受けており、山田御方の経歴はβ群の特性とも合致するとしている。 

『続日本紀』によれば、和銅7年(714年)2月に紀清人と三宅藤麻呂に対して国史撰述の詔勅が下りている。清人は翌年昇叙し、「優学士也」という理由で褒賞されている。森博達氏は、紀清人が巻30の持統紀を撰述し、三宅藤麻呂が潤色・加筆を担当したとしている。
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