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37-2.『法王帝説』は「戊午」の年を創作 [37.仏教伝来を解明する]

聖徳太子の伝記の一つである『法王帝説』は、聖徳太子(上宮聖徳法王)の誕生を甲午の年(574年)とし、聖徳太子が薨逝された年を壬午の年(622年)としている。どちらも「午」の年である。聖徳太子の「聖徳」は諡名(おくりな)であり死後付けられた名である。生前は「厩戸(うまやと)」皇子と呼ばれていた。聖徳太子には「午」が関わっている。

 『法王帝説』には、「戊午の年の四月十五日、小治田天皇(推古天皇)、上宮王(聖徳太子)に請いて勝鬘経を講ぜしむ。その儀は僧の如し。」とある。戊午の年は推古6年(598年)にあたる。『法王帝説』は仏教伝来を「志癸嶋天皇(欽明天皇)の御世、戊午の年」としており、仏教伝来、聖徳太子勝鬘経講話にも「午」が関わっている。
  聖徳太子薨逝  勝鬘経講話  聖徳太子誕生  仏教伝来
    壬     戊      甲     戊
 
  622年   598年    574年   538年
聖徳太子の勝鬘経講話の年は、聖徳太子薨逝の24年前であり、聖徳太子誕生の24年後で、薨逝と誕生の中間の年に持ってきている。そして、仏教伝来を聖徳太子の勝鬘経講話より、干支一回り60年前の戊午の年、538年にしている。 

『法王帝説』と『書紀』共に、聖徳太子の仏教の師は、高麗より来日した恵慈法師としている。『書紀』では、恵慈法師の来日は推古3年(595年)5月の事である。その3年後の推古6年(598年)4月に、聖徳太子が勝鬘経を講じたとするのは、如何に聖徳太子が聡明であったとしても早すぎるように思え、『書紀』の推古14年(606年)の方が史実ではないかと考える。聖徳太子の勝鬘経講話と仏教伝来の「戊午」の年は、私には創作されているように思える。

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