SSブログ

36-5.法起寺は天寿国繍帳を献納 [36.法隆寺の謎を解く]

D13天寿国繍帳.jpg「天寿国曼荼羅繍帳」は、現在その断片を中宮寺が所蔵し、国宝に指定されている。鎌倉時代の『太子曼荼羅講式』によると、鎌倉時代の文永11年(1274年)に、中宮寺の中興の祖と称される尼僧・信如により、「法隆
寺の蔵」から発見されたそうだ。『上宮聖徳法王帝説』
にも、「法隆寺の蔵」にあると記載されており、中宮寺
の「天寿国繍帳」は、もともと法隆寺の所蔵品であった
のである。
 

「天寿国繍帳」には銘文が刺繍されてある。その銘文の一部が現存するだけだが、『法王帝説』にはその全文が引用されてある。それには「聖徳太子が亡くなられたとき、妃の橘大郎女(推古天皇の孫)が推古天皇に、『太子と母の穴穂部間人太后は、契り合っていたかの如く、相次いで逝ってしまわれた。太子が往生した天寿国の様子を見たい。』と願われ、推古天皇は采女らに命じて繍帳二帳を作らせた。」とある。
 

この「天寿国繍帳」は、橘大郎女が所持していたと考える。橘大郎女は何処に住んでいたのであろうか。通説では、中宮寺の前身の中宮に穴穂部間人太后と一緒に住んでいたといわれている。『法王帝説』には、「聖徳太子の異母兄弟の多米王(田目王)は、父の用明天皇が崩御された後に、太子の母の穴穂部間人太后を娶り、佐富女王を生んだ。」とある。現代では考えられない事であるが、史実であったと考える。聖徳太子からみて、父の用明天皇が亡き後、母の穴穂部間人太后が住んでいた中宮に、義理の兄の多米王が母を娶って通っていた。そんな中宮に、妃の橘大郎女を住まわし、太子自身が通ったとは考えられない。
 

聖徳太子の宮は4ヶ所ある。主宮が斑鳩宮、傍宮が岡本宮・中宮・飽波葦垣宮である。聖徳太子には4人の妃がいたが、斑鳩宮には妃の蘇我の刀自郎女が長子の山背大兄王と住んでいたであろう。中宮には聖徳太子の母、穴穂部間人太后が住んでいた。飽波葦垣宮には、妃の膳部菩岐美郎女(膳大郎女)が住んでおり、太子もこの宮で亡くなったと言われている。岡本宮には推古天皇の娘で太子の妃、菟道貝蛸皇女(貝蛸王)が住んでいたが、子女も無いまま早くに亡くなったと思われる。その後、推古天皇の孫で太子の妃、位奈部橘王(橘大郎女)が岡本宮に住んだと考える。
 

「天寿国繍帳」は橘大郎女が住んでいた岡本宮にあったと考える。その岡本宮が聖徳太子の遺言により法起寺となる。『法隆寺資財帳』に「池後尼寺」とあるように、橘大郎女が「尼僧」となったのかも知れない。法起寺は「天寿国繍帳」を保持していたが、法隆寺再建の際に献納され、その見返りとして、法起寺三重塔の建立を得たと考える。法起寺三重塔の初層・二層・三層の大きさが、法隆寺五重塔の初層・三層・五層とほぼ同じであることは、これらを暗示している。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。