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36-3.中宮寺は薬師如来像を献納 [36.法隆寺の謎を解く]

聖徳太子が薨去された後、太子の王子山背大兄王は、聖徳太子が推古9年(601年)に造営した斑鳩宮に住んでいた。皇極2年(643年)に、蘇我入鹿が山背大兄王を急襲討して、斑鳩宮を焼き払い、山背大兄王以下の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれた。聖徳太子関連の法起寺・法輪寺・中宮寺の三寺院は、飛鳥時代後期には上宮王家の後楯を無くし困窮していたので、伽藍の再建や完成は儘ならなかった。 

丁度その頃、天智9年(670年)4月30日に法隆寺(若草伽藍)が全焼したのである。法隆寺は兵庫県揖保郡に広大な寺領(鵤荘)を保持していた。この寺領は、推古14年(606年)に推古天皇が聖徳太子におくられた播磨国の水田百町を、太子が斑鳩寺(法隆寺)に寄進したものである。法隆寺は、この鵤荘の財力でもって再建されたと考えられている。
 

『法隆寺資財帳』にあるように、法隆寺(若草伽藍)は仏教を学ぶための「学問寺」であり、聖徳太子の遺品は少なく、また焼失してしまっていた。再建法隆寺(法隆寺西院)には、聖徳太子のゆかりの品々が集められ、聖徳太子を祀る寺に変貌した。聖徳太子信仰の始まりである。聖徳太子ゆかりの品々は、釈迦三尊像・薬師如来像であり、天寿国曼荼羅繍帳であったと考える。法隆寺に釈迦三尊像・薬師如来像・天寿国曼荼羅繍帳を献納した寺々に対して、鵤荘の衆は、その見返りとして寺の再建・増築・修造の資財を提供したと考える。
 

D12法隆寺薬師像.jpg平安時代に設立した『聖徳太子伝暦』には、「中宮寺、この寺は間人穴太部皇后の宮なり、皇后が崩御の後寺と為す。」とある。間人穴太部皇后は、用明天皇の皇后であり、聖徳太子の母であった穴穂部間人皇后のことである。薬師如来像光背銘には、「用明天皇が病の平癒を願い、寺と仏像を造ることを請願し、推古天皇と聖徳太子が丁卯(607年)に奉じた。」とある。この寺が穴穂部間人皇后の中宮とされる中宮寺金堂で、穴穂部間人皇后は薬師如来像を祀り、用明天皇を弔っていたと思われる。そして、皇后亡き後に塔を建て寺としたと想像する。薬師如来像は中宮寺にあったものが、法隆寺再建の際に献納され、その見返りとして、中宮寺の再建を得たと考える。
 
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