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36-2.斑鳩の寺々は再建されていた [36.法隆寺の謎を解く]

D11斑鳩寺.jpg現在法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像・薬師如来像は推古朝のものである。また、天智9年(670年)4月30日の法隆寺全焼の際に、釈迦三尊像・薬師如来像を運び出すことは出来なかった。この二つの条件を満足さす解は、釈迦三尊像・薬師如来像は、670年以前に存在していた他の寺院から、再建後の法隆寺に移されたと考えれば成り立つ。それらの寺院は聖徳太子ゆかりの地、斑鳩にあった法起寺・法輪寺・中宮寺(中宮寺跡)であると考える。 

法起寺は池後寺・岡本寺とも呼ばれており、平安時代初に成立した『日本霊異記』には、「大倭国平群郡鵤
(いかる)村岡本尼寺は、昔小墾田宮御宇天皇(推古天皇)の世に、上宮皇太子が住まわれた宮を、太子が請願して尼寺にしたもの」とある。『日本書紀』には推古14年(606年)に、聖徳太子が法華経を岡本宮で講じたとある。 

鎌倉時代成立の『聖徳太子伝私記』には、「法起寺塔露盤銘文」が収録されている。この銘文の文章は漢文として意味の通じないとこがあったが、会津八一氏の読解によって、信頼出来る史料として認められるようになった。「聖徳太子は壬午年(622年)2月22日に崩ずるとき、山代兄王に山本宮(岡本宮)を寺とするよう遺言した。戊戌年(638年)に福亮僧正が弥勒像をつくり金堂を建て、乙酉年(685年)に恵施僧正が堂塔を建て初め、丙午年(706年)に露盤を作った。」とある。露盤を作ったということは、塔が完成したことを意味している。法起寺は聖徳太子が薨去された15年後に金堂が建てられ、法隆寺が全焼した15年後に塔の建立が始まっている
 

法輪寺については、平安時代前期成立の『上宮聖徳太子伝補闕記』に、「斑鳩寺(法隆寺)が被災した後に、百済聞師、円明師、下氷新物等の三人が、三井寺(法輪寺)を造った」とある。また、考古学的にみても、現在の法輪寺の伽藍は、法隆寺式伽藍配置で、法隆寺西院伽藍の3分の2の規模であり、法隆寺式軒丸瓦が用いられているなど、法隆寺との共通点があり、法隆寺の再建時期とほぼ同じ時期、七世紀後半の白鳳期に建立されていることが分かる。
 

法輪寺については、もう一つ創建説話がある。鎌倉時代成立の『聖徳太子伝私記』に引用されている「御井寺縁起」には、「聖徳太子の御病気平癒を願って、山背大兄王や由義王等が法輪寺を建立された」と記されている。これらからすると、七世紀後半の白鳳期以前に創建されていたことになる。法輪寺の発掘調査では、金堂北側で現伽藍(七世紀後半)の整地時に埋められたと考えられる窪地から「船橋廃寺式軒丸瓦」が出土している。「船橋廃寺式軒丸瓦」は、七世紀前半の飛鳥期の中期から後期のものと位置付けされており、創建時のものと思われる。法輪寺は法起寺とほぼ同じ時期に創建され、法隆寺や法起寺とほぼ同じ時期に再建されたと考えられる。
 

現在の中宮寺は法隆寺夢殿の東隣に立っているが、創建当初は400メートルほど東にある中宮寺跡に建っていた。現在の場所に移ったのは安土桃山時代と推定されている。中宮寺には「寺家縁起」がないため、創建を伝える文献がないが、『上宮聖徳法王帝説』には、聖徳太子が起こした寺として、「四天王寺・法隆寺・中宮寺・橘寺・蜂丘寺・池後寺・葛城」の七寺が上げられている。なお、奈良時代成立の『法隆寺資財帳』には、丁卯年(推古15年、607年)に推古天皇と聖徳太子が「法隆学問寺、四天王寺・中宮尼寺・橘尼寺・蜂岳寺・池後尼寺・葛城尼寺の七寺」を建立したとあるが、「丁卯年に推古天皇と聖徳太子が」と言う所は、薬師如来像光背銘と同じで、建立年は信用されていない。
 

文献では中宮寺の創建時期は明確ではないが、中宮寺跡の発掘調査から、伽藍配置は法隆寺(若草伽藍)や四天王寺と同じ、塔と金堂が南北に並ぶ四天王寺式であることが分かった。発掘された瓦は飛鳥時代から室町時代に及ぶが、創建時の瓦として高句麗系軒丸瓦や忍冬文軒丸瓦が出土しており、中宮寺はお若草伽藍より少し後の飛鳥中期に創建されたことが分かる。また、創建時の次の時代の瓦としては、白鳳後期の6弁・8弁の蓮花文軒丸瓦や忍冬唐草文軒平瓦が出土しており、再建法隆寺と同じ時代に再建が行われたことが伺われる。

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