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35-4.「聖徳太子」の呼称は道慈の作か [35.聖徳太子の謎を解く]

聖徳太子不在論の大山氏は、『書紀』に聖人である聖徳太子を造ったのは、右大臣の藤原不比等、大納言の長屋王、僧侶の道慈の三人で、仏教関係の記事を記載したのは道慈であるとしている。道慈は大宝2年(702年)の第7次遣唐使船で入唐し、養老2年(718年)12月の第8次遣唐使船で帰国している。道慈は帰国直前に、「本国において首皇子(後の聖武天皇)が皇太子に立ったことを知り、それを祝って詠んだ詩」を作っている。漢詩の現代訳は、『懐風藻』(講談社学術文庫)、江口 孝夫による。道慈が「聖徳」の言葉を使っている。
  三宝持聖徳  仏のみ教えは皇太子のすぐれた徳行をお守りし
  百霊扶仙寿  百神のみ霊は皇太子の不老長寿にお尽しする
  寿共日月長  ご寿命は日月と同じように長く
  徳与天地久  御徳は天地と同じように久しくあられますよう 

大山誠一編『聖徳太子の真実』には、聖徳太子不在論の論文が多数掲載されている。その中に「道慈の文章」を書いている吉田一彦氏は、「『聖徳太子』の呼称は後世のものであるが、ただ、これは『書紀』の敏達5年(576年)3月条の『東宮聖徳』、および推古29年(621年)2月条の『玄聖之徳』という記述に基づいて言い出された呼称と考えられる。では、その『書紀』の記述はどう理解すべき表現なのか。私は、『書紀』の『東宮聖徳』『玄聖之徳』という表現は道慈の手によるものであろうと考えている。」と述べている。 

『書紀』には、顕宗元年(492年頃)元旦条に「皇太子億計、聖德明茂」と「聖徳」の語が使われ、皇太子億計(後の仁賢天皇)の人徳を讃えた文章となっている。小島憲之氏の「上代日本文学と中国文学」によると、「聖德明茂」は『後漢書』(順帝紀巻6)の「孝安皇帝、聖德明茂」を潤色したとある。この述作も道慈の手によるものであろうか。道慈が唐より帰国したのが養老2年(718年)12月、『日本書紀』が舎人親王により撰上されたのが養老4年(720年)5月であり、その間は1年半しかない。顕宗天王から推古天皇までの10代に渡って道慈が『書紀』を述作したとは思えない。顕宗紀の「聖徳」が道慈の手によるものではないと考える。
 

『宋書』は南朝斉の武帝(440~493年)に命ぜられた沈約が編纂した歴史書である。『宋書』倭国伝の「倭の五王」についてはよく知られているが、『宋書』志第十一楽三には、三国志で有名な魏の曹操の詩がある。その冒頭は「周西伯昌 懐之聖徳」(周の文王は その心は聖徳)とある。西伯昌とは周の始祖武王の父の文王のことで、徳のある王であることは、儒教の基本経典である五経の一つである『詩経』にも載っている。我が国に仏教を伝えた百済の聖明王は541年に梁から毛詩博士を招聘している。毛詩博士とは『詩経』に精通した人である。『書紀』には欽明15年(554年)に百済から五経博士が来日していることもあり、「聖徳」の言葉は倭国に伝わっていたと思われる。 

推古天皇の時代、人徳を讃えた君主に「聖徳」の称号を与える下地があったと考える。厩戸皇子(皇太子)の呼称は、推古朝に薬師如来像光背銘にある「太子」「東宮聖王」が使われ、厩戸皇子(皇太子)が亡くなって、「諡」として「聖徳太子」の称号が造られたと考えられる。道慈が『書紀』編纂に参画して、厩戸皇子に対して「聖徳」の称号を造り上げたものではないと思う。

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いしやま

聖徳は倭国年号にありました。
最近珍しい書籍を教えてもらいました、ご存知かもしれませんが、紹介したいのですが。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、日本語教科書を作るため、茶道を含む、日本文化を幅広く聞き書き収集して著した、「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
この本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人が聞き書きした、日本の歴史が記載され、この頃あった、古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大倭年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本語研究書と見做され、日本大文典の倭国年号のこの内容は、実物を手に取った人にしか分からない状態になっています、ウィキなどにも倭国年号の存在は記載されていませんので、ぜひ一度手にとってご覧いただければ幸いです。
ついでに
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 続日本紀記載の720年「日本紀」は普通古代史専門家はこれを「日本書紀」と読み替える前提ですが、理由無く読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。


by いしやま (2013-12-28 05:22) 

omachi

歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)

読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。

奈良の所縁(ゆかり)を知ると古(いにしえ)の記憶が深まります。
by omachi (2018-09-10 21:41) 

立ち木観音

聖徳太子のお話、なかなか面白いですね。
しかし私は聖徳太子は蘇我の善徳であるという話を有力と考えます。
理由はいろいろありますが徳という字が被っている。
これはそれとなく聖徳太子を蘇我の善徳と暗示するための工夫でしょう。
蘇我氏が滅んだ時、立派な行いをし、隠すことのできない善徳の功績をどう説明するか。
そのため善徳を聖徳太子として記録に残した。これが実態と考えます。
by 立ち木観音 (2022-01-15 16:53) 

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