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35-3.聖徳太子薨去の年を解く [35.聖徳太子の謎を解く]

聖徳太子の薨日については、『書紀』は推古29年(621年)2月5日としている。しかし、『上宮聖徳法王帝説』、法隆寺の釈迦三尊像光背銘、中宮寺の天寿国繍帳銘は、推古30年(622年)2月22日となっている。『法隆寺東院縁起』には、天平8年(736年)2月22日の聖徳太子の忌日に、太子のために法隆寺で法華経講会がはじめて開催していることが記載してある。これらより、聖徳太子の薨日は推古30年(622年)2月22日が定説化している。

 『書紀』は何故、推古29年2月5日を聖徳太子の薨日としたのであろうか。聖徳太子の薨去の記事には、「この時、既に高麗に帰国していた恵慈が、上宮皇太子が薨じたことを聞き、僧を集め斎会を設け、経を説き請願した。『日本国に聖人有り、上宮豊聡耳皇子という。天から奥深い聖の徳をもって、日本国に生れた。中国の夏・殷・周三代を包み越えるほどの立派な聖王である。三宝を恭敬し、もろもろの厄のもとを救い、実に大聖なり。太子が薨じたいま、我は国を異にするとは言え、心の絆は断ち難い。独り生き残っても何の益もない。我は来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めよう。』と言った。そして、恵慈はその期日通りに亡くなったので、人々は『上宮太子だけでなく、恵慈もまた聖である。』と言った。」と記載されている。

 この文章が史実であったとは思えない。云うまでもないことであるが、「来年の2月5日に必ず死に」がなされるためには、上宮皇太子が薨じた情報が、その年のうちに高麗(高句麗)まで届いていなければならない。そのような往来があったような史料はない。だからと言って、これらは『書紀』編纂者が、聖徳太子を偉大なる聖人とするために捏造したとも思わない。これらの文章には、史実が隠されている気がする。

 『書紀』には、推古33年(625年)1月7日に、高麗王が僧恵灌をたてまつったので僧上に任じられたとある。この月日は「正月壬申朔戌寅」と記載されている。1月朔が「壬申」であるのは、625年でなく624年である。僧恵灌が来日したのは推古32年1月7日であった。聖徳太子が亡くなった推古30年(622年)2月22日から、2年後の推古32年1月7日に、高麗から僧恵灌が来日しているのである。恵灌は聖徳太子の恩師であった僧恵慈のことを知っており、また来日して聖徳太子が亡くなったことも知ったのであろう。

 推古32年1月7日に、高句麗の僧恵灌が来日した時の話を、私は以下のように空想した。「高句麗におりましたとき僧恵慈から、『日本国に聖人有り、上宮豊聡耳皇子という。天から奥深い聖の徳をもって、日本国に生れた。中国の夏・殷・周三代を包み越えるほどの立派な聖王である。三宝を恭敬し、もろもろの厄のもとを救い、実に大聖なり。』と聞いておりました。来日して、その上宮太子が推古30年2月22日に薨去されたと知り、残念でなりません。実は、僧恵慈も上宮太子が薨去された1年前の2月5日にお亡くなりになっております。お二人の師弟の間柄は、国を異にするとは言え、心の絆は断ち難く、相次いでお亡くなりになったのでしょう。きっと、浄土に於いて恵慈と上宮太子はお会いして、共に多くの人に仏の教えを広めておられるでしょう。」

 この話が伝承されていたが、『書紀』編纂者により、聖徳太子の薨日と僧恵慈の命日のすり替えが行われ、恵慈が聖徳太子を追慕して、「来年の2月5日に必ず死に、浄土に於いて上宮太子とお会いする」という文言が作りだされ、偉大なる聖人としての聖徳太子を演出したと考える。これは、『書紀』編纂者が歴史を捏造したのではなく、史実を物語化するために改ざん(編修)したのであろう。
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