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35-1.法隆寺系遺物は推古朝に誕生 [35.聖徳太子の謎を解く]

法隆寺の国宝薬師如来像の光背銘には「天皇」号が3ヶ所刻まれている。中宮寺の国宝天寿国繍帳の銘は断片であるが、『上宮聖徳法王帝説』に全文が引用されており、それには「天皇」が3ヶ所記されている。また、法隆寺の国宝釈迦三尊像の光背銘には、聖徳太子を指す「上宮法皇」という語が2ヶ所刻まれている。「法皇」は仏典で釈迦を指す「法王」と君主号の「天皇」との組み合わせによるものだそうだ。 

薬師如来像光背銘・釈迦三尊像光背銘・天寿国繍帳銘の文章からすると、これら法隆寺系史料が刻まれたのは、推古朝であると読みとれる。しかし、薬師如来像光背銘・天寿国繍帳銘にある「天皇」号は天武朝に制定されたという定説のために、これら法隆寺系史料は後世の捏造ではないか云われている。また、釈迦三尊像光背銘にある「法皇」は天皇号が成立して以後のものであるとされており、これも後世の捏造と考えられている。私は、倭国の天皇号の源流は、唐の高祖が使用した「天皇大帝」の称号ではなく、南朝の梁で国家祭祀として崇められた「天皇大帝」が、百済を経由して倭国に伝わり、聖徳太子により「天皇号」として制定された可能性を証明した。「天皇」号でもって、推古朝に法隆寺系史料が刻まれたということを否定出来ないと思う。 

D7釈迦三尊.jpg釈迦三尊像光背銘には「法興元卅一年歳時辛巳」とある。「辛巳」の年からすると、推古29年(621年)となる。「法興元」は年号を表わしているが、大化の改新以前に日本国内で年号が使用された証拠はなく、釈迦三尊像光背銘が後世の捏造である証拠の一つとされている。『釈日本紀』に引用された「伊予風土記」には、上宮聖徳皇子と慧慈法師、葛城臣が伊予村の温泉に行った年月が「法興六年十月歳在丙辰」と記載されている。「丙辰」は推古4年(596年)にあたる。釈迦三尊像光背銘に刻まれた「法興元卅一年」は「法興卅一年」の間違いであることが分る。 

「法興」は法興寺(飛鳥寺)の建立が始まった年を基準とした私年号(日本書紀に現れない元号)で、我が国で初めの年号であったと考えられる。だからこそ、釈迦三尊像光背銘には「法興卅一年」と刻むべきところを、「法興卅一年」と表記間違いをしたと考える。釈迦三尊像光背銘が天武朝・持統朝に刻まれたとすれば、それまでに「大化」(645~649年)や「白雉」(650~654年)の年号や、「白鳳」(661~683年)の私年号があり、「法興卅一年」の表記間違いをすることはなかったと思われる。 

釈迦三尊像光背銘も伊予風土記も、「法興元年」は崇峻4年(591年)にあたる。しかしながら、『書紀』の崇峻4年の記事には、法興寺の話は記載されていない。法興寺の建立について『書紀』は、崇峻元年に家を壊して寺を造り始め、崇峻3年10月に山に入って用材を伐り、崇峻5年10月に仏堂と廻廊の工を起こし、推古元年正月に仏舎利を仏塔の心礎に安置して心柱を建て、推古4年に落成したと記載している。 

寺院の建立で一番大切な年は、仏舎利を仏塔の心礎に安置し心柱を建てた年であろう。『書紀』はそれを「推古元年正月」としているが、もともとは「法興元年正月」であったのではなかろうか。法興寺の建立は、崇峻元年に家を壊して寺を造り始め、崇峻3年10月に山に入って用材を伐り、崇峻4年(法興元年)正月に仏舎利を仏塔の心礎に安置し心柱を建て、崇峻5年10月に仏堂と廻廊の工を起こし、推古4年に落成したとすれば、何の矛盾も起こらない。「法興元年」という記念日を、「推古元年」という記念日に重ね合わせたのは、『書紀』編纂者が行った改ざんである。この“改ざん癖”を理解すると、聖徳太子の謎が解けてくる。
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