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34-4.道光は新羅経由で帰国していない [34.「天皇号」の成立を解く]

「天皇号の成立と東アジア」を書いた増尾氏は『三国仏法伝通縁起』より、遣唐使僧の道光は天武7年(678年)に新羅経由で帰国したと推定されている。前節で私は、道光が678年に帰国したという史実はなく、678年に倭国に居た事は史実であるとした。唐の高宗が「天皇」の称号を使用し始めた674年8月から、道光が倭国に居た678年9月の間に、道光が新羅経由で帰国した可能性を探ってみる。 

唐と新羅は羅唐戦争(670~676年)を戦い、676年には高句麗・百済の地を支配下におき朝鮮半島を統一していることからして、674年から678年の間は、唐と新羅の間を倭人が単独で通交出来る情況ではなかったと考える。高宗が「天皇」の称号を使用し始めた674年8月以後の10年間に、唐から帰国した新羅の留学僧・留学生の記載は、『三国史記』、『三国遺事』にはない。
 

『三国遺事』によると、留学僧のる義湘が670年に帰国し、唐の大軍が攻めてくると文武王に知らせ、国難の危機を救ったと言われている。『三国史記』によると、文武王14年(674年)正月、唐に行って「宿衛」(宮殿で宿直し皇帝を護衛する親衛兵)をしていた唐福が、暦術を学び帰国し、あらためて新歴法を採用したとある。道光が新羅経由で帰国した可能性があるのは、留学僧のる義湘、あるいは宿衛学生の唐福に随伴した場合であり、唐の高宗が「天皇」の称号を使用し始めた674年8月以前である。これらからして、道光が新羅を経由して帰国し、天皇号の成立に関わる、高宗の天皇大帝(674年)の情報を伝えた可能性はなかった。
 

『書紀』によれば、天智10年(671年)11月10日、対馬の国司が大宰府に使いを遣わして「今月の2日に、唐から沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝裟婆・布師首磐の4人が来て『唐から船47隻に乗って、使人郭務悰ら6百人、送使沙宅登ら千四百人、総計2千人が比知島に着いた。人も船も多いので、このままそちらに行けば、恐らく防人が驚いて射かけてくるだろう。まず道久等我々を遣わして、前もって来朝の意を伝えに来ました。』と申しております。」との報告があったとある。
 

対馬の国司への伝令役を担った沙門道久については、「沙門」と付いているから僧であるが、その正体が分っていない。もしかすれば、道久が道光だったかもしれない。あるいは、この唐船で道光が帰国したとも考えられる。671年の12月に天智天皇が崩御され、唐船の郭務悰は翌年の672年5月まで筑紫に滞在し帰国している。この年は壬申の乱が起こっており、道光が都にかえったのは673年の事であっただろう。そして678年に、天武天皇の勅命により『依四文律抄撰録文』を選定したとすれば話は合っている。道光が671年の唐船で帰国したとしても、天皇号の成立に関わる、高宗の天皇大帝(674年8月)の情報を伝えた可能性はなかった。

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