SSブログ

34-3. 道光は「天皇号」を持込んだか [34.「天皇号」の成立を解く]

大山誠一編『聖徳太子の真実』平凡社には、聖徳太子不在論の論文が多数掲載されている、その中で「天皇号の成立と東アジア」を書いた増尾伸一郎氏の論文には、新羅経由で帰国した遣唐使の留学生・留学僧が「天皇」をめぐる最新情報をもたらした可能性がある。また、この時期に新羅の王族の碑文に「天皇大帝」、「高宗天皇大帝」という文言があることに注目したいと述べている。 

『書紀』には天武13年(684年)12月6日に、唐に派遣されていた留学生の土師宿禰甥・白猪史宝然が、新羅を経由して帰国したとある。天智8年(669年)の第6次遣唐使から大宝2年(702年)の第7次遣唐使までの天武・持統・文武の三代の30年間は遣唐使の派遣はなかったことからすると、二人の入唐は669年出発の第7回遣唐使船以前であると推察される。それならば、この二人は高宗が「天皇」の称号を使用し始めた674年には唐に居て、その情報を得た可能性は高い。しかし、帰国したのは684年12月であり、倭国では683年に「天皇」の語が用いられており、土師宿禰甥・白猪史宝然が天皇元号の成立に関わることはなかった。
 

増尾氏は、天皇元号の成立に関わる情報をもたらした留学僧として道光を上げている。孝徳天皇白雉4年(653年)5月に第2回の遣唐使船で倭国を発った道光は、唐で律蔵(仏教の戒律を集めた聖典)を修め、天武7年(678年)に帰国したとある。これが史実であれば、道光が「天皇」という称号を倭国に持ち込んだ、それにより「天皇号」が成立したというストーリーを描く事が出来る。
 

道光については、『書紀』には出発の記事はあるが、帰国の記事は無い。道光の帰国の記事は、鎌倉時代の東大寺の僧、凝然の著『三国仏法伝通縁起』に、道光は天武7年(678年)に帰国し、その年に『依四文律抄撰録文』を著したとある。『三国仏法伝通縁起』の不可解な所は、道光が入唐したのが何年か分らないとして、天武元年から天武7年の間であろうとしていることだ。凝然は、
『書紀』に書かれている持統天皇白雉4年(653年)の遣唐使で道光が唐に行ったことも、天武朝には遣唐使は無かったことも知らないのである。 

凝然は、道光が天武天皇の勅命で唐に行ったと誤解し、帰国は天武7年であると推定したと思う。史実は、道光の著した『依四文律抄撰録文』の序に書かれている、「戌寅の年(天武7年、678年)9月19日に、天武天皇の勅命により『依四文律抄撰録文』を選定した」ということだけである。結論から言えば、道光は678年に倭国に居た事は確かだが、道光の帰国の年が何年であるかは分っていないということだ。
 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。