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33-1.『隋書』倭国伝の史料批判 [33.隋書倭国伝の遣隋使を解く]

歴史研究者は史料批判無しに『書紀』の記述を受け入れることはない。史料批判には否定も肯定もあるはずであるが、『書紀』を否定することが学問となっている感がある。一方、中国の史料についての史料批判は少なく寛容である。それが史実を探求する唯一の方法であろうか。『隋書』倭国伝について、『書紀』推古紀と比較しながら検証してみる。 

『隋書』倭国伝には、開皇20年(600年)に倭王が遣使を王宮に遣わして来たとあり、これが第一回の遣隋使であるとされている。しかし、この第1回の遣隋使については、『書紀』には一切記載されていない。『書紀』は遣隋使について、推古15年(607年)に小野妹子を大唐(隋)に遣わしたと記載している。一方、『隋書』にも大業3年(607年)に、倭王が使いを遣わし朝貢してきたとあり、『書紀』と一致している。これが第2回の遣隋使と言われている。
 

遣隋使については、『隋書』では第一回が600年、第2回が607年、第三回が608年である。『書紀』では第一回が607年、第2回が608年、第3回が614年である。第何回の遣隋使との表現はややこしいので、以後は、[何年遣隋使]という表現を取る。
 『隋書』倭国伝の構成を調べると、「倭国紹介記事」が241文字、[600年遣隋使]が80文字、「倭国の見聞録」625文字、[607年遣隋使]が87文字、「608年斐清倭国派遣」が163文字、[608年遣隋使]が14文字である。『隋書』倭国伝の構成は、「倭国の紹介記事」、[600年遣隋使]、「倭国の見聞録」、「隋との朝貢来歴」となっている。 

『隋書』倭国伝の[倭国の紹介記事]には、魏の時代に30ヶ国が中国に通じたこと、邪馬台国は帯方郡から1万2千里で有ること、女王卑弥呼がいることなどで、明らかに『魏志』倭人伝をもとにして書かれている。
 『魏志』倭人伝の「倭国の見聞録」は、魏の使いが倭国を訪れた時に見聞したことを記載している。一方、『隋書』倭国伝の「倭国の見聞録」は、一見すると、[600年遣隋使]の倭国の使者が隋で語った話のような構成となっている。しかし、[600年遣隋使]の記事のすぐ後に、「内官には十二等級があって、徳・仁・義・礼・智・信の六等級に、それぞれ大・小の二等級」との内容が記載されている。 

[600年遣隋使]の倭国の使者が冠位十二階制度の話を語ったとするならば、冠位十二階制が600年以前に倭国で制定されていた事になり、『書紀』の603年制定と合わない。「倭国の見聞録」には「火柱を上げる阿蘇山」の話があり、608年に小野妹子の帰国に合わせて倭国に派遣された斐清の見聞録であると考えられる。そうすると、「冠位十二階制度」の記事は、608年に斐清が倭国で見聞きした事となり、603年に冠位十二階制度を創設したとする『書紀』の記事と年月の齟齬なく一致する。
 

『魏志』倭人伝の構成は、「倭国の紹介記事」、「倭国の見聞録」、「魏との朝貢来歴」となっており、『隋書』倭国伝の構成は、「倭国の紹介記事」、[600年遣隋使]、「倭国の見聞録」、「隋との朝貢来歴」となっている。 『魏志』倭人伝と『隋書』倭国伝の構成を比較すると『隋書』倭国伝の[600年遣隋使]を除けば、両者の構成は全く同じである。[600年遣隋使]の記事は、無理やり押し込んだ感じのする文書構成になっており、なぜ、「隋との朝貢来歴」の中に納めなかったのだろうとの疑問が湧く。

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コメント 2

白壁

遣隋使は書いて無いですよね、隋からの伝来物は無かったように書いているのではないですか、大興王から拝領の黄金を消しているのではないでしょうか。
by 白壁 (2014-10-11 09:39) 

児島宮考古学研究室

見ていただければ、幸いです。
by 児島宮考古学研究室 (2015-04-21 07:32) 

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