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32-8.「憲法十七条」は聖徳太子が制定 [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

憲法十七条が推古朝時代のものとしては不自然であるとする根拠の第二は、「中央集権的官僚制の精神で書かれており、氏族制度の時代にふさわしくない。」である。確かに、憲法十七条は群卿・群臣・百寮の語があり、官僚への戒めが多く書かれている。

崇神天皇から用明天皇までの、古墳時代の天皇紀について、群卿・群臣・百寮の語について調べた。ただし、「平群臣」の語は省いている。
 群卿は5天皇23ヶ所、群臣は15天皇63ヶ所、百寮は8天皇13ヶ所である。「臣(おみ)」は別として、「卿」「寮」は当時何と呼ばれていたか分からないが、律令制度下の「卿」「寮」に相当する官僚としての職務があったのであろう。大和朝廷に直接使える者への戒めが憲法に書かれているとすれば、氏族制度となんら矛盾がない。 

第三は、「中国の古典からの引用語句が多く、『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ている。」である。書紀の編纂者は、歴史を漢文で書き残そうとしたのであって、過去に用いられた言葉・語句をそのまま書き残そうとしたのではない。たとえ、憲法十七条の記録が残っていたとしても、それをただ単に書き写すのではなく、編纂当時の言葉で書き直すことに意義を感じていた、またそれが求められていたと考える。
 

例えば、江戸時代の史料を書き直すとすると、歴史学者は原史料として原文そのままを残すことを求めるであろうが、一般人は読んで解かる現代語に直すことを求めるであろう。歴史学者と一般人は求める視点が違うのだ。文章を現代語に書き直したからと言って、歴史を捏造しているわけではない。日本書紀は天皇に撰上されるものであり、天皇が読んで解かる文章でなければならない。『書紀』に書かれた憲法十七条は、聖徳太子が作成し後世に伝わっていた文章を、書紀編纂者が編纂当時の言葉で書き直したものと考える。

「日本書紀の謎を解く 述作者は誰か」の著者である森博達氏は、漢文で書かれている日本書紀を、音韻・語彙・語法・文体で分析されている。それによると、推古朝の本文も憲法17条の条文も同じ倭習(倭化漢文)があり、同一人の日本人により書かれているとしている。森氏は憲法の製作年代は、推古朝が書かれた年代に近く、少なくとも書紀の編纂が開始された天武朝以後であるとされている。日本書紀に書かれた憲法17条の文章は、天武朝以後であるかも知れないが、聖徳太子が書いた原本があったと、私は考える


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