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32-7.憲法十七条の「国司」は「国宰」 [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

憲法十七条が推古朝時代のものとしては不自然であると指摘した根拠の第一は、「国司の語は大化改新以前にはありえない。」であった。『書紀』には、古墳時代の天皇の記事に、「国司」の表記が8ヶ所出て来る。仁徳天皇紀では「遠江国司表上言」の1ヶ所、雄略天皇紀では「任那国司」が2ヶ所と「臣連伴造毎日朝參、國司郡司隨時朝集」である。清寧・顕宗・仁賢天皇紀では「播磨國司 來目部小楯」が5ヶ所出て来る。推古天皇の前の崇峻天皇紀では「河内国司」の表記が3度出て来る。 

「播磨國司 來目部小楯」の最も詳細な記述は「播磨國司 山部連先祖 伊豫來目部小楯」である。『古事記』の清寧天皇記では「山部連小楯、任針間國之宰」とある。『書紀』では国宰のことを、国司と表記している。「国司」・「国宰」の読みは、「くにのつかさ」「くにのみこともり」であり、大化改新以前には「国宰」という職務が、一部の地域ではあったと考えられている。
 

「国造(くにのみやつこ)」は、大和朝廷が地方の王(豪族)を支配下におくシステムであった。「国造」となった地方の王は、多分「屯倉」や「県」を朝廷に差し出す事で、地方での領地を朝廷から認められたのであろう。朝廷側からみれば、国造の領地を朝廷の権限がおよぶ領地とし、官吏に運営させたいと考えたに違いない。だから、江戸時代に幕府が外様大名に行った施策と同じように、後継者や権力争いで問題を起こした国造を取り潰し、国宰を派遣したと考える。
 聖徳太子の時代には「国宰」と「国造」の両方が存在していたと考える。時代考証感覚のない書紀の編纂者は、憲法十七条に「国司国造」と、「国宰」を「国司」と表記しただけのことである。
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