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32-6.「憲法十七条」はいつ書かれたか [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

『書紀』は推古12年(604年)4月3日に、聖徳太子が自ら始めて「憲法十七条」を作ったとしている。上宮聖徳法王帝説』には、推古天皇の御世乙丑の年(605年)7月、「十七余の法」を作ったとある。ただ、憲法十七条の文章が引用され残っているのは、書紀』だけである。憲法十七条の読み下し文の難しい漢字を、同じ意味の易しい漢字、またはひらがなに直し、各条の初め部分を下記に示した。 

 第1条、和を以って貴しとなす。争いごと無きを旨とせよ。(略)
 第2条、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。(略)
 第3条、詔は必ず謹んで承れ。君を則ち天とし、臣を則ち地とす。(略)
 第4条、群卿百寮、礼をもって本とせよ。民を治める本は、必ず礼にあり。(略)
 第5条、餮を絶ち、欲を棄てて、訴訟を明らかに裁け。(略)
 第6条、悪を懲らしめ、善を勧めるは、古の良き典なり。(略)
 第7条、人各々任有り。掌ること宜しく、乱れざるべし。(略)
 第8条、群卿百寮、朝早く、遅く退け。公事暇なし、終日にも尽し難し。(略)
 第9条、信はこれ義の本なり。事毎に信あるべし。善悪成敗は必ず信にあり。(略)
 第10条、心の怒りを絶ち、面の怒りを棄て、人の違うを怒らざれ。(略)
 第11条、功過を明らかにみて、賞罰必ず当てよ。(略)
 第12条、国司国造、百姓にむさぼるなかれ。国に二君なく、民に両主なし。(略)
 第13条、もろもろの官に任ずる者、同じく職掌を知れ。(略)
 第14条、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。我人を嫉めば、人また我を嫉む。(略)
 第15条、私に背きて、公に向うは、これ臣の道なり。(略)
 第16条、民を使うに、時をもってするは、古の良き典なり。(略)
 第17条、事は独り断ずべからず。必ず衆とともによろしく論ずべし(略)
 
津田左右吉氏は戦前から、憲法十七条が推古朝時代のものとしては不自然であると指摘して、奈良時代に太子の名をかりて、このような訓戒を作り、官僚に知らしめようとしたものであると結論付け、その根拠に三点を挙げている。大山氏は、その三点の要約を著書『聖徳太子の誕生』に載せている。
 第一は、第12条に「国司」という語が見えるが、国司は国を単位に行政的支配を行う官人
 のことで、大化改新前にはありえない。
 第二は、憲法の全体が君・臣・民の三階級に基づく中央集権的官僚制の精神で書かれている
 が、推古朝はまだ氏族制度の時代でありふさわしくない。
 第三は、中国の古典から多くの語を引用しているが、これらは奈良時代の『続日本紀』や
 『日本書紀』の文章に似ている。

大山氏は「国司という官名は大宝元年(701年)に編纂された大宝律令以後のものである。それは『日本書紀』編者の文飾で、本来は『国宰』などとあったとしても、推古朝に国造と並んで百姓を統治する地方官は存在しなかったのである。また、何よりも、十分中国文化を吸収した時代に書かれた『続日本紀』や『日本書紀』の文章に似ているのは、隋の高祖(文帝)に『此れ太だ義理なし』と言わせた文化レベルに相応しくないと言えよう。ここは、むしろ、『日本書紀』の編者自身の手になった文章と考えるのが妥当なのでないか、津田氏はそう主張されたのである。もちろん、私自身も、この津田氏の指摘はまったく妥当なものと考えている。」と書かれている。

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