SSブログ

32-4.厩戸皇子は皇太子になったか [32.「聖徳太子は実在しない」に挑戦]

推古紀に「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とした」とある。皇太子について大山氏は、「大王が生存中に後継者を指名するという皇太子制は日本にはなかったのである。大王がなくなると、しばしばその後継争いが起こったのは、そのためであった。皇太子制は、中国の制度に由来するもので、制度的には持統3年(689年)に編纂された飛鳥浄御原令において定まった。(中略)『日本書紀』には、初代の神武天皇にさかのぼって、原則としてどの天皇にも皇太子がいたことになっているが、もちろん、中国の歴史書をまねて書き加えたものにすぎず、歴史的事実ではない。」と述べている。 

古代から天皇には正室以外に何人もの側室がおり、何人もの男の皇子(御子)が生れている。天皇が生存中に次の後継者を選ばなかったということは考えられない。もちろん、後継者が決まっていても、天皇が亡くなってから後継争いが起こることもある。それは世の常である。「皇太子」の称号が生れたのは飛鳥浄御原令からとしても、後継者としての「皇子(御子)」は選んでいたであろう。書紀は長男の「皇子」を「大兄皇子」と呼んでいる場合があり、皇太子は長男が基本で、「大兄御子」と呼ばれていたと考える。ただし、長男の年齢・能力・母親の出自により、
 原則が踏襲されない場合もあったと思われる。

大山氏は「推古紀において、聖徳太子が、一貫して皇太子として描かれていることは大変奇妙なことになる。(中略)皇太子という地位に即して聖徳太子が登場するなら、皇太子という地位そのものがなかったとしたら、聖徳太子もいなかった、ということにならないだろうか。」と述べている。大山氏の見解は三段論法で、「皇太子という地位そのものがなかった」ということが「真」でなければ、「聖徳太子もいなかった」との結論にはならない。「皇太子という語」がなかったという事は在り得ても、「皇太子に相当する地位」がなかったとは思えない。これ以上は水かけ論、どちらにも決定的証拠はない。
 

聖徳太子が摂政として推古天皇に仕えたことは、推古紀に「仍錄摂政、以万機悉委」とある。日本古典文学大系と新編日本古典文学全集は、「仍
()りて 録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ 万機(よろずのまつりごと)を以て 悉(ことごと)く委(ゆだ)ぬ」と読み下している。解釈の難しい「錄摂政」についは、宋の科挙試験の参考書にある「録は総なり」から「総摂政」と解釈して、用明紀の「総摂万機、行天皇事」と同じと考えている。聖徳太子が推古天皇の摂政として、全ての政治・政務に携わったことを証明して行きたい。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。