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B-12.日本建国は241年1月29日 [Blog:古代史散策]

書紀記載の天皇の年齢はとても信用出来ないのだが、その編年は「日」の単位で非常に精緻に計算されている。これは、即位や崩御ばかりか、年月日を記載している全ての編年に言えることだ。書紀は何らかの意図を持って、歴史を延長し古く見せている。書紀が編年において歴史を延長したのは、記事と記事の間の空白の期間にあり、その空白の期間を短くする事により、書紀に記載された記事の全てを網羅した、史実に近い編年が再現出来ると考えた。 

書紀には神武天皇が建国して、持統天皇が文武天皇に譲位するまでの間、1357年間の編年が行われている。この1357年間で記事が書かれてある年数は、欠史8代の在位期間の記事と「魏志倭人伝」や「百済記」などからの挿入記事を除けば、369年間である。記事と記事の空白の期間が1年と2年は記事が書かれていた期間(61年間)とみなすと、書紀が歴史を延長した期間は、1357-(369+61)=927年間となる。
 

書紀の編年は、欽明天皇即位元年の皇紀1200年を起点として、卑弥呼に見立てた神功皇后が紀900年に在位、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれる崇神天皇は朝鮮の新羅・高句麗・百済より古くに即位された天皇として皇紀600年に在位、「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれる神武天皇は釈迦より古い現人神として1200年前の皇紀元年に即位したと編年している。これらは、干支60年の5倍の300年が基本となっている。これらより、書紀が歴史を延長した期間は900年であると考えた。
 

空白の期間を3~14年は1年間、15年以上を0年としたのは、空白の期間を900年とするために、書紀編纂者が行ったと思われる方策(仮説)である。この仮説で出来た年表は、カテゴリー「倭の五王を解く」で示すように、宋書に記載された倭の五王の朝貢記事と、「讃死し弟珍立つ」の「弟」の1文字を除けば何の齟齬もない。私の編年は、書紀に書かれた記事の内容を一切変更することなく、恣意的に編年を歪める事のない方法であると思っている。
 
C17 倭の五王.jpg
日本書紀は神武天皇が橿原宮で即位され建国した年を、「辛酉の年春正月庚辰朔」と記載している。この年を900年短縮すると建国の日は、邪馬台国の女王卑弥呼が魏より「親魏倭王」の金印を授かった翌年の、241年辛酉の年の元旦となる。新暦では241年1月29日となり、朔日の干支は「乙巳」である。「庚辰」ならば241年3月5日になってしまう。241年1月29日が日本建国の日にあたるのではないかと空想している。

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コメント 1

hikarinotenshi

>書紀は何らかの意図を持って、歴史を延長し古く見せている。
@普通はそう考えますよね。でも、そうではないと思います。
 私は、紀元前660年前後が東征の開始時期であり、神武天皇の即位は紀元3世紀後半と推定しています。
 『神武の東征』と云われている事績は確かにあったことだと確信しています。
 但し、『神武の東征』の記述をそのまま史実とする前提で、時代だけスライドさせても、謎は何も解明出来ないと思います。
 日本史は大幅に書き換える必要があります。
 余り詳しくは云えませんが、『神武の東征』には、意図的に記述しなかった事、意図的に加筆した事、改竄した事があります。
 当然、書き換えられた部分を修正することなく算出しても、本来の数字は算出されません。
 『神武の東征』と云われている事績はあったが、神日本磐余彦が生まれたのは大和地方です。
 僅か数十年で九州から大和地方まで征服出来るなどというのは非現実的な話です。
 名前の残っていない数十人の東征軍統帥が居たと考えるのが自然な考え方です。
 
by hikarinotenshi (2013-05-13 20:48) 

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