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31-3.安閑天皇陵出土のカットグラス [31.古代のガラス器]

G105 安閑天皇ガラス碗.jpg大阪府羽曳野市古市にある安閑天皇陵から出土したと伝えられる円形切子碗が、東京国立博物館の平成館に展示されている。この円形切子碗の由来は、江戸時代の享和元年(1801年)に刊行された『河内名所絵図』によると、「玉碗は西淋寺秘蔵の宝物、口径四寸・深さニ寸八歩、胴周りと底一面に星のごとき図形が連なる。玉の成分明らかならず。これは今より八十年前の洪水の時、安閑天皇陵の土砂が崩れ散って、其のなかより朱など多く出て、これに交じって出るところなり」とある。 

G106 正倉院白瑠璃碗.jpg安閑天皇陵出土の円形切子碗と瓜二つのカットグラスが、正倉院宝物の白瑠璃碗である。口径120㎜x底径39㎜x高さ85㎜の寸法も、透明の淡褐色のガラスの色も、アルカリソーダガラスのガラス成分も、円形切子のデザインも同じである。ただ、円形切子については、安閑天皇陵出土品は5段62個、正倉院宝物品は6段80個と違っており、円形文様も安閑天皇陵出土品は円形カットが連なり、正倉院宝物品は円形カットか重なり合い亀甲状になっている。両者のカットグラスは同一時代、同一場所で製作されたものではないかと考えられている。
 

G6切子碗.jpg「27-3.ササン朝ペルシャのグラス」で書いたが、『ペルシャのグラス』の著者、深井晋司氏は昭和38年にイランの首都テヘランの骨董店で正倉院宝物の白瑠璃碗と同じ円形切子碗を見つけている。
このカットグラスはイラン北西部のカスピ海沿岸ギラーン州のアムラシュの遺跡から、盗掘品として約100個が古美術市場に出回ったものの一つであった。なお、写真の右側にある凸の円形模様のガラス片が沖ノ島の遺跡から出土している。 

安閑天皇陵出土の円形切子碗と正倉院宝物の白瑠璃碗は、ササン朝ペルシャ
のカットグラスで、シルクロードを通って伝来したと考えられている。西アジアで円形切子装飾を施したカットグラスが製作され始めた年代は、紀元1世紀頃まで遡るが、ササン王朝時代(226年~651年)に隆盛を極め、七世紀後半イスラム時代に入って衰退すると考えられている。ササン王朝時代のカットガラスの編年が明らかでないので、安閑天皇陵出土の円形切子碗と正倉院宝物の白瑠璃碗の年代は明らかではないそうだ。 

安閑天皇の崩御の年は日本書紀・古事記とも535年で、前方後円墳である安閑天皇陵(高屋築山古墳)の古墳年代は515年前後である。「19-8.天皇陵の古墳年代の解明」で示したように、天皇崩御の年と考古学から見た古墳年代がほぼ一致しており、高屋築山古墳が安閑天皇陵であることは確かだと考えられる。安閑天皇陵出土の円形切子碗は535年には日本に伝来していた。
 

正倉院宝物の白瑠璃碗は、記録にはないが天平勝宝四年(752年)の東大寺の大仏開眼会の際に奉納されたか、あるいは天平勝宝八年(756年)聖武天皇77忌に光明皇后が聖武天皇ゆかりの品を東大寺の大仏に奉献しているが、その奉物に入っていたと考える。正倉院宝物の白瑠璃碗は750年までには、日本に伝来していた事になる。
 

G107 敦煌絹幡.jpg正倉院宝物の白瑠璃碗と安閑天皇陵出土の円形切子碗とでは、その伝来した時期が2百年の差がある。両者のカットグラスは同一時代、同一場所で製作されたものではないかと考えられており、両者共安閑天皇の父親である継体天皇(515~533年)が入手して、正倉院宝物の白瑠璃碗は2百年間以上天皇家に伝世されていたものかも知れない。シルクロードの敦煌出土の絹幡には、観世音菩薩の右手に緑色の円形切子碗が描かれており、絵から透明のカットグラスであることが分かる。正倉院宝物の白瑠璃碗と安閑天皇陵出土の円形切子碗はシルクロードを通って伝来した。

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