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31-2.仁徳天皇陵のガラス器 [31.古代のガラス器]

G103 仁徳天皇陵石棺.jpg明治5年に仁徳天皇陵の前方部が崩壊して石槨の中にある石棺が現れた。石棺は開けることはなく全て埋め戻されたが、石棺の周りの器物についての調査は行われ、絵図が描かれていた。この絵図より石槨は竪穴式石室、石棺は長持形石棺、器物は甲冑・剣・ガラス器等であったことが分る。ガラス器は2個で瑠璃色の壺のようなものと、白色の皿のようなものであったそうだ。堺市博物館には、復元した石棺とガラス器が展示してある。

G104 仁徳天皇陵ガラス.jpg新沢千塚126号墳のガラス碗は口縁が内側に湾曲しており壺と言っても差し支えなく、色も淡黄緑色だが無色透明と言える。また、ガラス皿の紺色は瑠璃色と言える。こう考えると、仁徳天皇陵出土のガラス器は、千塚出土のガラス器と良く似ていると言える。「2.日本書紀原典の再現」で示したように、私の年表では仁徳天皇の崩御は434年である。新沢千塚126号墳の築造は5世紀後半頃とされており、仁徳天皇陵との年代は近い。
 

日本書紀によると仁徳17年(399年)に、「新羅が朝貢しなかった。秋九月、的臣の先祖砥田宿禰と小迫瀬造の先祖賢遣臣を遣わして、朝貢せぬことを詰問された。新羅人は恐れ入って貢物を届けた。調布の絹千四百六十匹、その他種々の品物が、合わせて八十艘であった。」とある。日本書紀の表現には誇張があると思われるが、新羅から種々の品物の貢物が届けられたことは確かであろう。新羅からの貢物の中に、金製品やガラス器が入っていたと考える。
 

仁徳天皇陵のガラス器は紺色(瑠璃色)の碗(壺)と無色透明(白色)の皿、新沢千塚126号墳のガラス器は紺色の碗と無色透明の皿である。
仁徳天皇陵と新沢千塚では、碗と皿の色の組み合わせが逆になっている。新羅の貢物のガラス器は、瑠璃色の碗と皿、無色透明の碗と皿のセットであったが、それが分れて仁徳天皇陵と新沢千塚126号墳に埋葬されたのだと想像したくなる。
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