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30-15.鉛ガラスを造った飛鳥池遺跡 [30.ガラス素材は弥生時代から造っていた]

飛鳥時代は聖徳太子が摂政となった推古元年(593年)から平城京遷都(710年)の118年間を言う。この間においては天皇即位のたびに宮殿が造られ、都の地も転々と移動しているが、主たる都の地は飛鳥にあった。その飛鳥京跡の近くで、飛鳥寺跡に隣接した小さな谷筋に飛鳥池遺跡がある。この遺跡からは天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694年)に付属する官営工房の跡が検出された。 この官営工房は、銅・鉄・金銀・玉類・ガラスなどの複合工房であった。ガラス工房跡からは、ガラス原料の石英・方鉛鉱、ガラスの附着した砲弾型の坩堝、ガラス小玉の鋳型、緑色・褐色・黄色・青色・紺色の未製品ガラス玉が多量に出土している。

ガラス工房から出土した坩堝に残存していた黒色粉末を分析したところ石英(SiO22545%、方鉛鉱(PbS5070%で、それに少量の輝安鉱(Sb2O3)が検出されている。これらから、坩堝は鉛ガラスを溶融していたことが伺われる。正倉院古文書「造仏所作物帳」(734年)の記載から割り出した鉛ガラスの組成は、SiO2が38%、PbOが62%であり、
飛鳥池遺跡のガラス工房で作られた鉛ガラスの組成とほぼ同じであると考えられている。 

ガラス小玉の鋳型は「たこ焼き型鋳型」と呼ばれ、古墳時代前期前葉から奈良時代にかけて全国で普及したものである。たこ焼き型鋳型が発見された当初は、坩堝で溶かしたガラスを鋳込むと考えられていたようだが、現在ではガラス粉末を型穴に入れて、鋳型ごと加熱してガラス玉を作っていたと考えられている。この方法は現在アフリカのガーナで行われているビーズ作りの方法と同じである。文化というものは、時間を越え距離を越えて伝播し、それを必要としている所のみに残っていくものだ。

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奈良文化財研究所

某所より貴殿のブログURLを入手し、拝見致しましたところ、当研究所所有の写真画像が複数使用されていることが分かりました。
過去に写真使用の申請をされておられましたら、許可書に記載されております文書番号をご教授ください。
もしも使用申請をされておられないようでしたら、下記のアドレスにあります申請書をご利用のうえ、ご申請くださいますようお願い申し上げます。

http://www.nabunken.go.jp/info/application.html

どうぞよろしくお願いいたします。

by 奈良文化財研究所 (2013-05-29 16:55) 

t-tomu

承知いたしました。
by t-tomu (2013-05-31 07:27) 

奈良文化財研究所

ご理解とご協力に感謝いたします。
by 奈良文化財研究所 (2013-06-03 14:04) 

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