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11-4.邪馬台国から大和王権へ [11.邪馬台国は大和に遷都]

古墳時代の政権を考古学では「ヤマト王権」と表現している。私はこれらの政権は、日本書紀に書かれた通り、律令国家としての大和朝廷に繋がるものであると考え、「大和王権」と表現する。初期の大和王権は三輪山の裾野に広がる纒向の地で誕生したと考えられているが、その王権こそが崇神天皇で、都を磯城の瑞籬宮(みずがきのみや)にしていた。 
崇神天皇10年、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に、四道将軍を派遣している。吉備津彦を派遣した西海は、平安時代の西海道と同じとして、九州を指すと考えられているが、私は四国東部であると思っている。

図30 銅鐸分布.jpg図30は弥生時代後期の銅鐸が出土した、旧国(平安時代)別の分布図である。四道将軍が派遣された、北陸・東海・西海(四国東部)・丹波は、全てが銅鐸出土地である。もし、邪馬台国が卑弥呼の時代から大和にあるならば、卑弥呼や壱与を共立した倭国の国々30ヶ国は、銅鐸を祭器として使用していた国々であることになる。そうなると、四道将軍は同盟国を平定するために派遣された事になる。邪馬台国と大和王権は繋がっており、そして四道将軍の話が史実であったとするならば、邪馬台国畿内説は成り立たない。                         
       
                                        
崇神11年四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告している。「この年異俗の多くが帰順し、国内は安らかとなった」と書紀に記載されている。四道将軍が派遣された、北陸・東海・西海(四国東部)・丹波は、同盟国ではなく、平定せねばならない敵国であり、邪馬台国とは異なる祭器・銅鐸を祀る異俗の国であった。大和王権の発生の地とされる纒向から出土する土器の15%が外来系土器で、その半数が東海地方、その次に多いのが北陸・山陰地方である。四道将軍が平定した異俗の地から、纒向に多くの人がやってきたのではないだろうか。

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根の国の語部

 島根県の安来は古事記では根之堅洲国というところでスサノオの活躍地ですね。正確には十神島根之堅洲国となりますが長いので古事記では省略されています。この省略された、十神島というのは出雲国風土記では砥神島という陸繋島であったであろう現在の安来市の十神山です。この島は安来市のシンボルと見いわれ、きれいな円錐形をした小山ですが、古代の人たちの崇敬の島だったらしいです。この十神というのはイザナギ・イザナミを含むそれ以前の時代を、神世といってその後の神代の時代と分けて表現されますが、神世七代には十の神がおりそれからつけられた神聖な島だったのだと思われます。ここがオノゴロ(淤能碁呂)島と考えると、近くにイザナミの神陵地もあることから合理的なのではと思われます。
by 根の国の語部 (2013-01-01 21:55) 

t-tomu

山陰道を通って出雲に行く時、安来市の当たりで見事な神奈備山を見た記憶があります。お陰さまでその山が十神山ということを知りました。山の形を見ただけで、色々な言い伝えがあるであろうことは想像出来ます。
by t-tomu (2013-01-04 16:49) 

須賀の語部

「あらかねの土にしては、すさのおのみことよりぞ起こりける。」(古今和歌集仮名序)
あらかねとは通常、土の枕詞であり、この文章は、
「(和歌はこの日本の)地においては須佐之男命の時から詠まれはじめた。」
となる。
しかし、出雲国風土記で意宇郡安来郷の地名由来には「スサノオノ命が、ここに来て、こころが安らかになった。だから安来とつけた。」あり定住を決めた発言とも読める。
記紀においてはヤマタノオロチを倒した後、稲田姫命をめとり「八雲立つ出雲八重垣妻篭めに、八重垣つくるその八重垣を」と日本最初の和歌を出雲で詠んで定住を開始したという。
 古代より、鉄の産した安来の地のことを「あらかねのつち」=(新しい金(鋼)を産する地)と訳せばあらゆることに説明がつくのである。
by 須賀の語部 (2013-03-24 20:51) 

t-tomu

「古今和歌集仮名序」を初めて読みました。難解で理解するのが難しい内容でしたが、和歌の奥義・和歌の心について書いているということが、なんとなく解りました。
文章の中の「あらかねの土にしては、すさのおのみことよりぞ起こりける。」については、「あらかねの土」という言葉は、須佐之男命のことから起こっているので、その背景には「出雲の砂鉄の土」あるいは「安来の地」があることを知った上で使いなさい。ただ単に「土」の枕詞として「あらかね」を使うのであってはいけない。和歌は言葉でなく、その背景を詠まなくてはいけないと述べているような気がしました。須佐之男命の歌に「あらかねの土」を詠んだ歌がないので、「あらかねの土」が「出雲の砂鉄の土」を指すのか、「安来の地」を指すのかは、私には分かりません。勝手な解釈で間違っているかも知れません。勉強になりました。

by t-tomu (2013-03-29 16:45) 

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