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29-10.ガラス釧を副葬した遺跡 [29.ガラスを透して古代を見る]

弥生時代後期になって、ガラス釧(くしろ:腕輪)が登場する。ガラス釧は筑前の二塚遺跡甕棺墓、出雲の西谷2号墓、丹後の比丘尼屋敷墳墓と大風呂南1号墓の4遺跡から出土している。朝鮮半島には原三国以前の出土例はなく、中国ではガラス釧と報告されているのは、湖南省長沙市(前漢)と遼寧省旅順市(時期不明)の二か所のみである。 

福岡県前原市の二塚遺跡の弥生[後期]後葉とされる甕棺墓から、ガラス管玉9個、ガラス小玉39個と共に、ガラス釧の破片が22個出土している。これらの破片から2個のガラス釧であることが分かった。1個は外径8㎝x内径6㎝x厚み1.2㎝で、他の1個は一回り小さく、断面形状は両方ともD型をしている。釧は風化がひどく白色化しているが、局所の観察より、透明度の高い緑色をしていたことが分かった。ガラスの成分は、
SiO25%:PbO70%の鉛ガラスであった。 

島根県出雲市にある西谷2号墓からは、3個のガラス釧が出土している。
西谷2号墓は南北36mx東西24mx高さ3.5mの四隅突出墳丘墓で、築造時期は弥生時代[後期]後葉である。3個のガラG67西谷2号墳釧.jpgス釧の大きさは似かよっており、約外径7㎝x内径6㎝x厚み0.8㎝、断面形状はD型である。風化がひどく白色をしているが、元は透明度の高い緑色であったそうだ。成分分析がなされ、SiO39%PbO60%の鉛ガラスであった。ガラス釧には引き伸ばしたと見られる痕跡と、接合したと見られる痕跡が見られ、坩堝からガラス種を引き伸ばして取り出し、円形の筒に巻き付け、端部を接合する巻き付け技法で製作されたものと考えられている。 

京都府京丹後市の比丘尼屋敷墳墓は、以前古墳時代とされていたが、現在弥生時代後期後葉と考えられている。この墳墓から出土したガラス釧は、外径7.2㎝x内径6㎝x厚み1㎝、断面形状はD型で、風化が激しいが透明度の高い緑色であったと考えられている。成分は分析されていないが、接合部の痕跡が見られ、巻き付け技法で製作されたものと考えられている。
 

G68大風呂釧.jpg京都府与謝野町の大風呂南1号墓は、天の橋立の内海の阿蘇海を見下ろす丘陵にある、弥生時代[後期]後葉の大型台状墓である。この第1主体の船底状の木棺から、鉄剣11振り・銅釧13個、緑色凝灰岩の管玉272個、ガラス管玉10個等と共に、ガラス釧1個が出土した。ガラス釧の大きさは、外径9.7㎝x内径5.8㎝x厚み1.8㎝、断面形状は五角型で、透明度の高い青色(コバルトブルー)である。接続痕がないことから、両面鋳型で鋳造されたと考えられている。成分分析の結果、マグネシア(
MgO)の少ない、カリガラス(SiO2 83%:K2O 13%:Al2O3 3%)である。 

ガラス釧を出土した4遺跡とも弥生時代[後期]後葉に比定されている。弥生[後期][ ]を付けた場合は、弥生終末期を想定した区分であり、弥生[後期]後葉がいつ頃かというと、倭国王帥升が後漢に朝貢した107年から、卑弥呼が共立された188年の間の2世紀にあたる。卑弥呼が共立される直前の時代に、この時代のガラス製品の頂点であるガラス釧が、筑紫・出雲・丹後から出土しているのは、その地に大きな権力があったことを示しており、邪馬台国とどう関わりがあるのか興味を引くところであるである。

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