29-8.弥生後期の東西ニ大王墓 [29.ガラスを透して古代を見る]
弥生後期のガラス製品が出土した、北九州の遺跡で有名なのは福岡県前原市(現:糸島市)の平原遺跡だ。この地は「魏志倭人伝」に出て来る「伊都国」に比定されている所である。ガラス璧が出土した三雲南小路遺跡を弥生中期の王墓とすれば、平原遺跡は弥生後期の王墓と言える。両者は直線距離で2㎞か離れていない。平原遺跡は昭和40年に農作業中に偶然発見された方形周溝墓で、墳丘は削平されていたが復元されたものは東西13mx南北9.5mx高さ1.8mである。その墳丘の下に約4m四方で深さ約0.5mの墓壙が掘られ、そこに長さ3mx幅0.7mの割竹木棺が置かれていた。
墓壙内と棺内には多量の副葬品が納められており、直系46cmの内行花文鏡4面、方格規矩鏡32面が出土している。平原遺跡出土の鏡は有名だが、青色の勾玉3個、青色の管玉約30個、紺色連玉886個、紺色ガラス小玉約492個のガラス玉もすばらしい。勾玉と管玉は鉛バリウムガラス、連玉はソーダガラス、小玉はカリガラス、一つの遺跡に色々な材質のガラスが存在している。ガラスから見ても、平原遺跡は弥生後期の最大の権力者の遺跡であることが分かる。
墓壙内と棺内には多量の副葬品が納められており、直系46cmの内行花文鏡4面、方格規矩鏡32面が出土している。平原遺跡出土の鏡は有名だが、青色の勾玉3個、青色の管玉約30個、紺色連玉886個、紺色ガラス小玉約492個のガラス玉もすばらしい。勾玉と管玉は鉛バリウムガラス、連玉はソーダガラス、小玉はカリガラス、一つの遺跡に色々な材質のガラスが存在している。ガラスから見ても、平原遺跡は弥生後期の最大の権力者の遺跡であることが分かる。
日本書紀の「神代」では、天照 大神が隠れた天の岩屋の前で榊の枝に八咫鏡・五百箇御統・八坂瓊曲玉を飾り祈祷したと記載している。平原遺跡からは、それらに相当する青銅鏡・ガラス首飾り・ガラス勾玉が出土している。私は「6.実在した神代の世界」で、平原遺跡の方形周溝墓を天照大神の墓に比定している。
弥生時代後期にガラスの新たな中心地となっている丹後地方は、鉄の遺跡が多いことで有名である。この地方では、方形台状墓という独特の弥生墓が築かれ、それらの方形台状墓には多くのガラス製品が副葬されている。京丹後市の三坂神社墳墓群、左坂墳墓群、大山古墳群の台状墓からは総計で勾玉13個、管玉67個、そしてガラス小玉が9.194個出土している。
これらの副葬品はガラス勾玉22個、ガラス管玉57個、碧玉管玉39点、鉄剣1点、ヤリガンナ1点であった。なお、第一埋葬の舟形木棺は未発掘だが、第四埋葬の1.5倍くらいの大きさで、王の埋葬施設と考えられている。赤坂今井墳丘墓は弥生時代の終末期、丹後を支配した王墓と考えられる。はたして、王はどのような副葬品を携えて眠っているのだろうか。
2012-10-19 00:00
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