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29-7.ガラス製勾玉は日本で製作 [29.ガラスを透して古代を見る]

G52 勾玉金冠.jpg翡翠の勾玉は縄文時代中期から製作され、縄文時代晩期・弥生時代・古墳時代を通じでの装飾品であり、威信財でもあった。韓国の学者には勾玉の起源は韓国であると主張する人もいるが、5世紀の韓国南部の遺跡から勾玉が出土していること、翡翠は韓国では産出しないこと、翡翠の化学分析から新潟県の糸魚川産と同じであったことからして、勾玉の起源は日本であることは間違いないと考えられている。 

昭和49年に福岡県教育委員会は、江戸時代に発見された三雲南小路遺跡を再調査し、1号甕棺墓の側から2号甕棺墓を発見した。2号甕棺墓からは、前漢鏡22面以G53勾玉須玖岡本.jpg上、ガラス璧を加工した垂飾1個、硬玉製勾玉1個、ガラス製勾玉12個が出土している。1号甕棺墓からは3個のガラス製勾玉が出土し、同じ弥生中期後半の須玖岡本遺跡D地点の甕棺墓からもガラス製勾玉1個が出土している。図53は須玖岡本遺跡の長さ48㎜のガラス製
勾玉である。表面は風化が進み白色となっているが、内部は鮮やかな青緑色である。この他に弥生中期のガラス製勾玉の出土遺跡としては、岡山県山陽町の門前池遺跡、同県長船町の木鍋山遺跡、大阪府加美遺跡がある。これらの内数点が定性分析されており、鉛バリウムガラス、あるいはバリウムを含む鉛ガラスと考えられている。 

弥生後期になるとガラス勾玉は北部九州を中心に、福井県の1例を除いて機内より西に23遺跡42個が分布する。福岡県8遺跡11個、佐賀県2遺跡3個、長崎県・熊本県・大分県各1個、中国地方では広島県・島根県・鳥取県で各1個、畿内では大阪府・奈良県が各1個、そして京都府北部の8遺跡18個である。京都府北部の丹後半島周辺が福岡県と肩を並べる程の中心となって来ている。
 

日本独自のデザインである勾玉が、ガラスで作られていることからして、これらのガラス製品は素材を中国から輸入し、それを溶融して鋳型に鋳込み、勾玉を製作したと考えられている。山口県下関市の弥生中期初頭の下七見遺跡からは、日本最古の勾玉鋳型が出土しており、それを伺わせている。ガラスの鋳造が確認されたのは、福岡県春日市の弥生時代後期後半の五反田遺跡である。遺跡からは勾玉鋳型が4個、ガラス質が附着した坩堝5個、そのG54勾玉鋳型.jpg他に、ガラス片とガラス滓が出土している。五反田遺跡のガラス片の分析から鉛バリウムガラスと分かっている。
この他に勾玉鋳型を出土した弥生遺跡は、福岡県春日市の須玖赤井手遺跡・須玖坂本遺跡、福岡市の弥永原遺跡、小倉市の長野尾登遺跡などがあり、大阪府茨木市の東奈良遺跡がある。これらの遺跡はいずれも青銅器の鋳造、あるいは鉄器の製作に関わりのある遺跡である。 

丹後地方のガラス製作遺跡としては、弥生中期後半の遺跡ではあるが、京丹後市弥生町の奈具岡遺跡がある。この遺跡は水晶や緑色凝灰岩の玉類を製作した遺跡であるが、ガラスの生産も行っていたようで、小さなガラス片が多数、そしてガラス滓が出土している。奈具岡遺跡には鉄製品を作る鍛冶工房もあり、8㎏を超す鉄片が出土している。弥生時代後期にガラスの新たな中心地になった丹後半島には、内外との交易を行い、ガラス素材を溶解する技術が弥生中期後半には出来ていた。
 

G55西谷3号墓勾玉.jpg図G55は、島根県出雲市の四隅突出墳丘墓の西谷3号墓から、ガラス管玉4個・ガラス小玉170個と一緒に出土した、極めても特異な形状をしたブルーの勾玉2個である。その成分もソーダ石灰ガラスに鉛とバリウムが入ったような特殊なガラスである。出雲の王はこのガラス勾玉をどこから手に入れたのだろうか。

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