SSブログ

28-1.中国のガラスの起源を考える [28.中国・韓国の古代ガラス]

古代ガラスの種類はソーダガラス(SiO2-Na2O)、カリガラス(SiO2-K2O)、鉛ガラス(SiO2-PbO)に分類することが出来る。シリカ(石英:SiO2)の融点は1650℃であるが、融剤(Na2OK2OPbO)を混ぜると、シリカが融け始める温度が800℃以下になる。これらの原理を4500年前のメソポタミアの人は発見していたのである。 

中国では戦国時代の遺跡から鉛バリウムガラスが出土するが、この種のガラスはオリエントでは作られてなく、中国独自で発展したガラスである。しかしながら、それはメソポタミアでガラスが始現した時と違って、
ガラスそのものの存在は、現物の伝来によって知見があったと考える。オリエントから中国にガラスが伝来した時、ガラスの製造技術まで伝来したのではないだろう。ただ、「白い石を溶かして作った」というくらいの話は伝わっていたであろう。戦国時代にガラスを初めて見た楚国あるいは周国の王は、青銅器を製作していた工人にガラスの製作を命じたと考える。 

G17石英.jpgそれらの工人は、まず石英・水晶を加熱して見た。そして、それらが溶けないと分かると、手当たり次第に白色や透明でガラス光沢のある鉱石を加熱して見たに違いない。その中で、白鉛鉱は溶融したがガラスではなかった。(白鉛鉱は
PbCO3で加熱すると分解してPbOとなり890℃で溶融する)これらの作業の中から石英と白鉛鉱、両者の粉を混ぜて加熱すると、透明のガラスが出来る事を発見したと推測する。白鉛鉱の結晶はガラスの輝きのある白色、白鉛鉱に辿りつくまでに時間は余りかからなかったのであろう。初めに出来たのは、鉛ガラスであったと考える。 

G18白鉛鉱.jpg後漢王充の『論衡』には「随公薬を以て珠を作る・・・・道人五石を消爍して五色の珠を作る」とある。「爍」には溶かすという意味があり、「石を消爍」とは、「石が溶けて消えガラスになる」ことを示している。「随公」とは「27
-3.中国の古代ガラス珠」で述べた、夥しい青銅器が出土した曽候乙墓に葬られた戦国時代の楚国の人物である。曽候乙墓から出土したトンボ玉のほとんどはソーダ石灰ガラス珠であるが、鉛バリウムのガラス珠も混じっている。青銅器が鋳造出来る技術がある中国では「白い石を溶
かして作った」との情報があれば、ガラスを作ることが出来たのである。
 

G19トンボ玉.jpgンボ玉を作るためにはガラスに着色する技術、ガラス玉を作る技術、模様付けをする技術などが必要となってくる。これらの技術を独自で習得出来たのは、中国には春秋時代から陶器の釉薬の技術があり、戦国時代の初めには、眼玉模様のファイアンス珠が出来きるまで進歩していたためであろう。
 

1929年頃、中国河南省でキリストの司教をしていた考
古学者のホワイトは、市場に出回っていたトンボ玉が洛陽の戦国時代の周の古城址金村から出土していることを突き止めた。そこで、イギリスの学者セリグマン氏に分析を依頼し、中国のトンボ玉のガラス組成には、中国独自の鉛バリウムガラスのものがあることを発見した。表G20トンボ玉分析.jpgG19はその分析結果である。資料No2はオリエントのソーダ石灰ガラス、No6が鉛ガラス、No1が鉛バリウムガラスである。No3・4・5は、鉛の少ない鉛バリウム系ガラスで、溶融温度を下げるためにアルカリ成分を入れたのであ
ろう。初めに出来たのは鉛ガラスであったと考えても
おか
しくない。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。