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26-7.インディカの伝播ルート [26.インディカ、5千年の旅]


B781イネ系統図.jpg5000年前に、インディカのウルチG(F
)はタイの北東部コラート台地で、熱帯ジャポニカのウルチ(父親)と野生イネのニヴァラ(母親)の数世代に渡る交配により誕生した。そして、インディカのウルチ(母親)と熱帯ジャポニカのモチ(父親)の交配により、インディカのモチT(G)が生れた。インディカのモチ(母親)と野生イネのニヴァラ(父親)から、野生の血を引くハイブリッド米のインディカ
T(R)品種が誕生した。インディカT(R)とインディカのウルチの交配により、インディカのウルチの主力品種G(B)(インド型)とG(A)(中国型)が生れている。 

B93 モチの栽培地.jpgインディカのウルチ(母親)と熱帯ジャポニカのモチ(父親)の交配により、インディカのモチが生れた。これらの考えが正しいとすると、両者の栽培地は同じになるはずである。図B92を見ると、バングラデッシュ・ブータン・ネパール、ミャンマー・タイ・ラオス、ベトナム・カンボジア、マレーシア(マレー半島)・インドネシア(スマトラ・ジャワ)、カリマンタン島(マレーシア・インドネシア・ブルネイ)・フィリピン、それぞれが同一地域とみなすことが出来る。マレーシアとインドネシアが二つの地域にまたがっており、正確性に少し欠けるが、インディカと熱帯ジャポニカのモチの栽培地はほぼ同一であることが分かる。インディカの伝播ルートを明らかにすると、イネ全体の伝播ルートが明らかになってくると考える。
 

B92 インディカの栽培地.jpg4000年前、中国長江中流域で稲を栽培し、また舟の漕行が得意であった苗族が、雲南の西双版納(シーサンパンナ)を通り、メコン川を下り、タイのコラート台地を経て、ミャンマーのタトンの地に移り住んだ。そのとき、苗族はインディカのG(F)・T(G)・T(R)、(以後古インディカと呼ぶ)、および熱帯ジャポニカT(G)をコラート台地よりタトンに持ち込んだ。そして、3500年前の三星堆遺跡の子安貝が採取されている頃には、インディカのインド型G(B)がミャンマーのタトンで誕生していたと考える。苗族は子安貝を採りにアンダマン海やジャワ海に舟で乗り出し、また沿岸沿いにベンガル湾をインドへと漕行した。苗族は舟の漕行には稲籾を伴っており、インディカのインド型・古インディカ、そして熱帯ジャポニカがマレーシア(マレー半島)・インドネシア(スマトラ・ジャワ)に、さらにカリマンタン島・フィリピンへと伝播した。また、バングラディシュを経由して、インドとスリランカへと、そしてブータンとネパールに伝播した。ただし、全ての地が3500年前に稲の栽培化に結び附いたとはかぎらない。3500年前以降の可能性もある。

B92 インディカ伝播.jpg2500年前、雲南の貯貝器の子安貝が採取された頃、イン
ディカの中国型G(A)が、タイのコラート台地で生れた。これ
らは、ミャンマーのタトンを通じてインド型と同じ地域に伝
播した。その一方、メコン川を下りカンボジア・
ベトナム南
部に伝播した。またメコン川を遡上して、雲南省の西双版納
(シーサンパンナ)に伝播し、哀牢山脈西側の李仙江(沱江)を下って、北部ベトナム(ハノイ周辺)に伝播した。銅鼓が
広西省に伝わった2世紀にはインディカも広西省に伝播し、
広東省には西江沿いに早く伝わったと考えられる。図B94
にこれらインデアカの伝播ルートを示す。
 

長江下流域にインディカがいつ伝わったかは分からない。10世紀末の宋の時代に、ベトナムのチャンパ(フエ)原産の占城稲という、早生で害虫や日照りに強く収穫量の多い品種のインディカが、華南に導入されたことは良く知られている。中国の学者は、
河姆渡遺跡など長江下流域で7~8千年前に稲作が開始された当初から、インディカが栽培されていたという見解が多い。これらの遺跡から多量の炭化米が出土している。これら炭化米のDANをより多く分析すれば答えが出て来るであろうが、「中華思想」が研究に絡むと真実が遠のいてしまう。  


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