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26-4.錫石を求めてメコン川を下る [26.インディカ、5千年の旅]

紀元前4世紀、雲南省楚雄市(昆明市と大理市の間)付近で出現した青銅器の銅鼓(ヘガーⅠ式)は、紀元前3~2世紀(戦国末~前漢早期)には、滇国(昆明市)で発展した。滇国時代の石寨山遺跡や李家山遺跡から多量の銅鼓が出土している。これらの銅鼓は元江(紅江)を下りベトナム北部に伝わり、紀元前後にはハノイ付近でドンソン文化として発展する。そして、2世紀(後漢)頃には、中国の広西省の西江の川沿いで盛んになる。 

B85 錫鉱床.jpg一方、タイ・インドネシアを中心とした東南アジア諸国にも、紀元前2世紀から紀元後2世紀の間に、ヘガーⅠ式の銅鼓が伝わっている。これらの出土地を見ていて、私にはひらめくものがあり、東南アジアの錫鉱床の上に、銅鼓が出土した地点をプロットしてみた。これらから見ると明らかに、メコン川流域と錫鉱床のある所から銅鼓が出土していることが分かる。
 錫鉱床があるということは、錫鉱山があったということではない。たぶん、錫鉱床のある地域を流れる河川から、錫の鉱石である錫石を採取することが出来たのであろう。それを採取したのは原住民であって、錫石と銅鼓を物々交換したのであろう。錫は青銅器の原料の一つであるが、特に銅に錫が混じると合金は硬くなる。青銅武器には錫は必要不可欠な金属である。昆明国や滇国にとって錫石は欠くべからざるものであった。それにしても、紀元前後にタイやマレーシアの隅々まで、錫石を求めて探しまわっているのも驚きだ。 

B86 竹筏舟.jpg銅鼓と錫石の交易がメコン川を通じで行われていたに違いない。銅鼓が作られた時代、雲南省の
瀾滄江(メコン川)周辺には哀牢夷が住んでいた。タイ族の先祖である哀牢夷がこれらの交易に関わり合いを持っていたのであろう。哀牢夷が用いる舟は竹で出来た筏舟であったのであろう。後漢書には、哀牢夷が住む地域には、節と節の間が一丈(10尺、2.3m)にもなる竹があるとあり、筏舟を用いたことも書かれている。現在でも浙江省の漁村では図86の写真(日本人はるかな旅、イネ、知られざる1万年の旅:NHKブックス)に見るような竹の筏舟が使われている。 

雲南省の西南端に西双版納(シーサンパンナ)タイ族自治州がある。この地域には現在でも後漢書に書かれている野生の象や孔雀がいる。洲都である景洪市からはタイと船が行き来している。景洪市からは、チベットのラサまで続いたという茶馬古道が、
哀牢山の麓を通って普洱市・景東市、そして大理市(昆明国)に通じている。銅鼓と錫石もこの道を通ったことであろう。我々が考える以上に、古代人は各地と交易をしていたに違いない。 


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