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24-2.「海上の道」はあった [24.ジャポニカ、一万年の旅]

民俗学者の柳田国男氏が「海上の道」を発表されたのは1952年である。岩波文庫「海上の道」のあとがきに、ノーベル賞作家の大江健三郎氏は、「稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島には及ばないために、考古学の領域では北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし黒潮の流れにそった『海上の道』を終生の課題とした彼は、この最後の遺書ともいえる問題の書のなかで、原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とつながりをもつことに注目して、・・・北方からの文化南下説を正面から否定しているわけでではないが、あたかもそれは有史以後のことで、原日本人そのものが始源の時代においては南から島づたいに漂いついたもので、その際、途中で離島に残ったものが原沖縄人であるというもののようである。」と書かれてある。 

この文章を、有史以前が縄文時代、有史以後が弥生時代とするならば、
柳田氏の考えは、縄文時代に南方からの人々が稲作を持ってやって来たとの考えが根底にあったのではないだろうか。「海上の道」が発表された当時、縄文稲作(縄文後期以前)など考えられていなかった時代であるから、「海上の道」は弥生稲作(縄文晩期含む)の渡来ルートの一説として捉えられてしまったのではなかろうか。 

藤原宏志氏のプラントオパール分析により、縄文稲作の存在が確認され、佐藤洋一郎氏のDNA分析により、日本の在来種のイネのなかには、熱帯ジャポニカの遺伝子があり、その遺伝子は南西諸島(奄美諸島・沖縄諸島)に繋がっている。そして、弥生時代の炭化米のDNA分析より、熱帯ジャポニカの遺伝子が混じっていたことを発見し、弥生時代の稲作には温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカがまじって植えられていた、その熱帯ジャポニカは縄文時代の稲作からきたものであると結論付けている。これらを考えると、民俗学者の柳田氏の卓越した先見性に驚くばかりである。
 

私は中国の
河姆渡で稲作が始まった同じ7000年前頃、スンダランドからイネの種子をもって旅立ち、沖縄諸島を伝って九州に辿りつき、稲作を始めた人々がいたと考える。ただ、6300年前に薩摩硫黄島付近の海底火山・鬼界カルデラの大爆発があり、縄文稲作として生き残ったのが、6000年前のプラントオパールが出土した岡山地方であったと考える。 

B54 海の道.jpg柳田氏は「最初から、少なくともある程度の技術とともに、あるいはそれ以外に米というものの重要性の認識とともに、自ら種実を携えて、渡ってきたのが日本人であったと、考えずにおられぬっ理由である。」と書いている。我々の先祖が縄文早期にスンダランドからイネの種子を携えて、南西諸島を伝わってやって来た。スンダランドこそ柳田氏のいう、我々の先祖の故郷であろう。そして、スンダランドから、南西諸島(沖縄諸島・奄美諸島)を通って、日本にやってきた道こそ、「海の道」であった。図B54は「見えてきた稲の道」の講演で佐々木高明氏が用いた佐藤洋一郎氏の図に、「スンダランド」と「海の道」を加筆した。

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