SSブログ

24-1.水田稲作の起源は中国 [24.ジャポニカ、一万年の旅]

スンダランドは2万年前位から水没が早まり、7千前には水没してしまう。この間、スンダランドに住んでいた海洋民族の人々は、イネの種子を持って7~8千年前には、スンダランドから舟で旅だっていったのであろう。中国に行った人々は、7~8千年前には長江下流域で稲作を初めている。これが河姆渡遺跡ではなかろうか。 

スンダランド生まれの熱帯ジャポニカは、まだ野生イネの性質が色濃く残っていたが、中国の気候は大きなストレスとなり、湿地栽培しても穂を出し花を咲かせ、種子を実らせたのであろう。ちなみに、現代の気温はスンダランドに近いシンガポールで見ると、平均気温で夏が28~29度、春と秋が27~28度、
河姆渡遺跡に近い杭州では夏が28~29度、春と秋は15~18度である。シンガポールと杭州を比較すると、夏の暑さはそれほど変わらないのに、春と秋の気温差は10~12度もある。この気温差は地理的なもので、7000年前と現在と温度は違ったとしても。温度差は変わらないと思う。 

この温度差を熱帯ジャポニカはストレスに感じたのであろう。スンダランドでは湿地では種子をつけなかったものが、中国では湿地での栽培で種子を実らせるようになった。さらに、春から夏にかけては水を張り、夏から秋にかけては水を抜き、多年草としての生育と、野生に戻さないための工夫がされ、より多くの実りを得たのであろう。これが長江流域で始まった
水田稲作の始まりである。最古の水田址は江蘇省の草鞋山遺跡(6000年前)で見つかっており、水田稲作は長江流域が起源である。 

B52 kaboto.jpg7000年前の河姆渡の人々は湿地に幾本もの柱を打ちこみ、高床式の住居を作って暮らしていたそうだ。図B52の写真はその住居の柱址、「日本人はるかな旅 4」(NHKブック)引用した。河姆渡遺跡の遺物には、稲作関連の遺物ばかりでなく、釣り針や銛(もり)といった漁労具が数百点発掘され、木製の舟のオールまで見つかっている。浙江省の沖合にある舟山群島という島々から、土器など河姆渡の遺物が見つかっているそうだ。湿地に高床式で住み、稲作と漁労を行い、遠くまで航海する術を持っている。これはまさに、スンダランドの海岸に
近い川辺に住んでいた人々の暮らしではなかろうか。
 

B53 温帯ジャポニカ.jpg水田稲作が始まると、熱帯ジャポニカのウルチ米、
G(F)qSW5 Wx qSH1が突然変異して、水田稲作に適した温帯ジャポニカのウルチ米、G(P)qsw5 Wx qSWH1が生れるのである。このウルチ米は、日本人が食べる温帯ジャポニカのウルチ米と違って、パサパサしている古いタイプと思う。4千年前にはこの古いタイプの温帯ジャポニカのウルチ米は、長江を遡り雲南地方まで達したと考える。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。