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22-1.最北の弥生水田跡「垂柳遺跡」 [22.縄文稲作は存在したか]

「歴史探訪の旅」と称し、日本全国の縄文・弥生・古墳時代の遺跡巡りをしている仲間と、青森の三内丸山遺跡、秋田の大湯環状列石、岩手の御所野遺跡、青森・八戸の是川遺跡に行って来た。十和田湖・八幡平では紅葉真っ盛りの10月下旬、紅葉も見ないでその裾野を一周した訳だ。 

その旅では、縄文の文化のレベルの高さに圧倒された。三内丸山遺跡の発掘の報告を聞いてから、縄文時代は狩猟・採集と言うイメージは払拭していたが、それを上回る文化が存在することに驚いた。中でも御所野縄文博物館に展示していた、蒔前遺跡の土器は、その洗練された形状と薄さは、弥生時代を通り越し、古墳時代の須恵器に匹敵するもので、文化は右上がりに発展するだけではないと感じた。
 
B21垂柳遺跡水田.jpg
私の守備範囲は弥生と古墳時代、今回の歴史探訪の旅で最も興味を抱いたのは、最北の弥生水田跡が発掘された
垂柳遺跡であった。垂柳遺跡は青森県弘前市の隣の、津軽郡田舎館村にあり、田舎館村埋蔵文化センターでは、垂柳遺跡の近くで発見された高樋遺跡の弥生時代の水田跡と水路を保存している。図B21にそれらを示す。 

その説明文には「『歴史を変えた水田跡』 今から数十年前まで、東北地方北部には、弥生時代が存在せず、弥生文化の影響を受けた続縄文時代が存在していたのだと、言われていました。しかし1981年、垂柳遺跡で約2000年前(弥生時代中期)の水田跡が発見されたことにより、それまでの一般的常識が覆されたのです。垂柳遺跡での水田跡発見のニュース
は、考古学関係者以外の歴史学者や植物学者などの人々に、大きな問題提起をしました。また、北緯40°以北の寒冷地で、しかも2000年前に大規模な水田経営がなされていたことも驚きを与えました。このように垂柳遺跡は、東北北部の弥生時代を解明するうえで、大変貴重な価値のある遺跡なのです。」とある。 

現在では垂柳遺跡は2300年前の水田跡と認識されており、また弘前市に垂柳遺跡より古い弥生水田跡、砂沢遺跡が岩木山の東麓にある。国立歴史民俗博物館では、紀元前400年頃には水田稲作が青森に伝わっているとしている。図B22に垂柳遺跡の水田跡の発掘風景、図B23にその水田跡に残っていた弥生人の足跡を示す。
                  

B22垂柳発掘.jpgB23水田の足跡.jpg 

                                    


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