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20-4.弥生の故郷は山東半島 [20.青銅器の鉛同位体比の秘密]

福岡市西区の飯盛山の裾野に吉武遺跡群と呼ばれる遺跡がある。この遺跡群の中心は吉武高木遺跡・吉武大石遺跡・吉武樋渡遺跡で弥生中期の初頭から後葉の遺跡である。これらの遺跡の甕棺墓・木棺墓からは、多鈕細文鏡・細形剣・細形矛・細形戈、いわゆるラインDを形成する朝鮮系青銅器が出土している。 

この吉武遺跡群から出土した青銅器の鉛同位体比について測定がなされている。これら測定データには出土地と遺構名が記載されており、吉武遺跡群の発掘当事者である常松幹雄氏の著書「最古の王墓・吉武高木遺跡」に記載された遺構名・甕棺型式と照らし合わせると、鉛同位体比と甕棺型式を対応させることが出来る。
 

B12吉武遺跡.jpg北部九州の甕棺の変遷は明解になされており、古い順から弥生中期初頭の金海式、中期前半の城ノ越式、そして中期中頃の須玖式、中期後半の立岩式である。なお、木棺墓は副葬されている小壺の様式から甕棺の編年と対応させることが出来ている。吉武遺跡群から出土した青銅器の鉛同位体比を甕棺型式で層別して、図B12に表した。
 

このラインをラインDと呼ぶ。図B8の模式図に示したラインDとの違いは、ラインDがA領域まで延びていることで、その他は全く同じである。金海式はd1~d4まであり、城ノ越式はd1~d3まで、須玖式はd1~d2まで、全ての甕棺型式のものがd1を起点としている。           (図をクリックすると大きくなります)


甕棺の編年が新しくなる程プロットが描く直線は短くなっている。金海式甕棺出土の朝鮮系青銅器が、ラインDの端から端(d1~d4)まであるのは、方鉛鉱の精錬が銅鉱石の精錬と同時に行われ、鉛が高温に長時間さらされ、鉛の減損が激しく起こったためと考える。 

吉武遺跡群出土の青銅器が、甕棺編年の全ての時代において、d1近傍の鉛同位体比を示す青銅器があることから、原料である方鉛鉱の鉛同位体比がd1近傍あるいはその延長線上にあると予測することが出来る。この条件を満足する方鉛鉱は、中国山東省の香奇鉱山の方鉛鉱と銅鉱石がラインDの端でd1の近傍にあった。香奇鉱山は、戦国時代の済国の貨幣に用いられた鉱山である。
弥生中期の画期が、多鈕細文鏡・細形剣・細形矛・細形戈の青銅器の出現である。その青銅器が中国山東半島の原料を使用していたことは、今まで考えられていなかった事である。

朝鮮半島の青銅器文化の源流は、中国の遼西地区(遼寧省西部)に生まれ、朝鮮北部に伝わった遼寧式銅剣である。
その後、朝鮮半島では遼寧式青銅器の色彩が薄れ、細形銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸の朝鮮独自の青銅器文化が生れている。この青銅器文化が日本に伝わったのだ。この頃、朝鮮半島に中国の金属器文化の波が押し寄せている。中国式銅剣が韓国全羅北道の上林里から26本出土している。この中国式銅剣5本(韓国3本、日本2本)の鉛同位体比が測定されているが、その全てがラインDに載っている。朝鮮系青銅器の鉛産地が、中国の山東省であった証拠の一つであると考える。

 9月29日投稿の「B2.国立歴史民俗博物館の年代観」で、歴博の「水田稲作の広がり 中国から日本列島へ」のコピーを図B2に掲載した。それを見ると中国の長江下流域で始まった水田稲作が、山東半島から、朝鮮を経由して北九州に伝わっている。青銅器も稲作と同様に、山東半島をから、朝鮮を経由して北九州に伝わっている。山東半島が弥生の故郷なのであろうか。


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