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21-3.魏は乳が好き、呉は乳が嫌い [21.三角縁神獣鏡を調べる]

この話は、魏の曹操は女好きで、呉の孫権は女嫌いであったという話ではない。魏の神獣鏡には乳があり、呉の神獣鏡には乳がないという話だ。中国では、鏡は春秋戦国時代からあるが、神獣鏡は後漢の時代に出来た鏡だ。この神獣鏡と、神獣鏡より少し以前からあった獣帯鏡、少し以後に出て来た盤龍鏡の、年号が銘記された紀年鏡の「乳」について調べてみた。 

B7紀年銘神獣鏡.jpg図B7の「乳」について見ると、後漢前期には「乳」で、後漢中期には「環状乳」になっている。環状乳とは乳の真ん中が火山の噴火口のように凹んでいる乳である。後漢後期と三国黎明期は「乳なし」、三国時代、呉は「乳なし」、魏は「乳・環状乳」となり、西晋は「環状乳・乳なし」で、三国が西晋に統一されると「乳なし」となっている。
 

三国時代の黎明期(221年~228年)を紐解くと、220年(黄初元年)は魏王曹操が後漢の献帝を廃し後漢が滅亡し、221年(章武元年)劉備が蜀の国を建国し、222年(黄武元年)孫権自立し呉の年号を定め、229年(黄竜元年)孫権が呉の国を建国してる。     
            (表をクリツクすると大きくなります)           
呉の孫権が自立した時の年号「黄武」が面白い、魏の年号から一字「黄」を、蜀の年号から一字「武」を取っている。実際この頃、呉の孫権は魏に近づいたり、蜀に近づいたりしている。神獣鏡の「黄初」の年号にも「黄武」の年号にも、呉の地である「会稽」の地名がある。魏も三国黎明期には、鏡は会稽で作っていたのであろう。だから「黄武」の年号の鏡は、魏の鏡でありながら乳がないのである。
 

1984年3月、東京プリンスホテルで開催された第7回古代史シンポジウムの席上で、中国社会科学院考古研究所の前所長の王仲殊氏は、「三角縁神獣鏡は魏王朝から賜与されたものではなくて、当時日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」と講演し、日本の考古学会に大きな衝撃を与えた。この発表により、それまで劣性であった、三角縁神獣鏡の国内製作論は息を吹き返し、現在では三角縁神獣鏡の製作地を、中国と考えるか、日本と考えるか、5分5分の感じである。
 

呉には、神獣鏡には「乳」を配置しないという伝統がある。
三角縁神獣鏡の全てに「乳」がある。この「乳」という点から見ると、三角縁神獣鏡は、「日本に渡来した呉の工人によって、日本で製作されたものである。」とは言えないと思う。なお、紀年鏡がないので年代が明確でないが、江南の地域から出土する画文帯神獣鏡に環状乳があり、画像鏡に乳があることは申し添えておく。


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