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B-1. 「大歳庚寅正月六日庚寅」銘の大刀 [Blog:古代史散策]

「日本書紀の解明 邪馬台国と大和王権」と題して、これまでに、19のカテゴリーで109の記事を掲載してきた。これらは、倭国の誕生から邪馬台国を経て、大和王権の成立までの、日本国家の成立過程を、日本書紀を基軸として、私なりに解明したものである。 

「日本書紀の解明 邪馬台国と大和王権」については、「19-9.古墳時代の編年が解明される日」で完結した。これからは「Blog:古代史散策」として、ブログ本来の姿のように、あちこちと話題を変えながら、古代史に関する記事を載せて行く予定である。
 

「完結」に当たり、最後の文章は「日本書紀が歴史の表舞台に立ち、歴史・考古学が築いて来た成果と互いに補完して、新しい視点に立った展開が開かれると確信する。」と結んだ。この文章が公開されたのは、9月22日の0時である。9月22日の朝刊各紙は、福岡で出土した「庚寅」銘入りの大刀について報道し、「570年製」「最古の暦」「日本書紀裏付け」の見出しが付けられている。日本書紀が表舞台に出て来た。
 

この鉄製大刀(75センチ)は、福岡市西区の元岡古墳群G6号の横穴式石室から出土したもので、X線撮影の結果大刀の根元の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が金か銀で象嵌がされていた。古墳時代の「庚寅」の年で、1月6日が「庚寅」となるのは570年のみであることから、「庚寅」の年を確定している。
 

日本書紀によると、欽明天皇14年(553年)に、「医博士・易博士・暦博士は当番制により交代させよ、ちょうど交代の時期になっている」と、百済に要請している。そして翌年、新たな三博士が来日している。新聞では、554年に初めて暦博士が来日したかのような表現を取っているが、書紀の文章からすると、554年以前から暦博士が百済から日本に来ていたことが伺える。
 

埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、「辛亥年7月」の干支と、雄略天皇を示す「獲加多支鹵(わかたきろ)」の文字が象嵌されており、「辛亥年」を471年に比定している。雄略天皇の時代から、干支が使われていたのである。こう見ると、新聞の記事よりも、書紀の方が正確に表現していることが分かる。
 

私が注目するのは、「庚寅」銘入りの大刀に刻まれた「大歳(太歳)」の文字である。日本書紀の継体天皇25年に、百済本紀が引用され「太歳辛亥三月(531年)」とある。また、韓国の扶余にある百済寺址から出土した、国宝である「百済昌王銘石造舎利龕」
には、「百済昌王一三年太歳在丁亥」の文字が刻まれている。「龕(がん)」とは舎利・仏像を安置する箱。昌王とは威徳王のことで、567年に舎利を奉納したことを記している。これらより、6世紀に百済では干支の前に「太歳」の文字が使用されていたことがわかる。 

日本書紀では、天皇が即位した年に必ず「太歳○○(○○は干支)」と表記している。欽明天皇元年は「太歳庚申」で540年、皇紀でいうと1200年になる。日本書紀の基となった帝紀が、百済から来た暦博士の元で、欽明朝に歴史を900年延長して作られたと、私は考えている。今回発見された「大歳庚寅正月六日庚寅」の象嵌銘入りの大刀は、帝紀が欽明朝に作られた証拠に成りえるものである。

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コメント 2

名も無き人

百済本紀の太歳辛亥の年(531年)の記録には日本国の天皇や太子その他の皇子が薨去した記述があります。日本書紀はリアルタイムで古墳時代を記録したものではなく、あくまで後世の史書です。その証拠に一書に曰わくという書き出しが顕著に見受けられます。ヤマトの正しい記録であると何故言い切れるのでしょうか?
by 名も無き人 (2014-08-21 12:46) 

t-tomu

『百済本紀』は現存しておりません。「太歳辛亥のの年・・・」の記事は、日本書紀が『百済本紀』を引用した文章です。ご指摘のように日本書紀は「一書曰く・・・」の記事が多くあり、一見客観的に書かれているかのように見えますが、多くの改ざんがあることも事実です。しかし、それは歴史を捏造したものとは思っていません。日本書紀の根底には、日本の歴史の史実が書かれてあり、私はその史実を見つけ出したいと思っています。
by t-tomu (2014-08-22 21:41) 

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