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18-3.書紀に書かれた仁徳天皇の朝貢 [18.倭の五王を解く]

倭の五王の時代、中国は南北朝の時代と言われ、南朝と北朝の二つに分かれていた。北朝は三国時代の魏の領地を支配し、南朝は呉・表14倭の五王讃.jpg蜀の領地を支配して、南朝には宋・斉・梁・陳の国が起こった。日本書紀にある呉とは南朝を指している。それでは、「讃」が仁徳天皇であることを日本書紀に求めてみる。日本書紀に書かれている呉との関わりがある出来事についての元年表の年代と、晋書・宋書の「讃」の記述とを比較し表14示した。 
                            (表をクリックすると大きくなります)
倭の五王が南朝に朝献するようになったのは、仁徳天皇と特定した讃王が、413年に晋に朝献したときに始まっている。三国史記によると、413年に高句麗の長寿王が晋の安帝に朝献して「高句麗王・楽浪公」に封じられている。高句麗は自ら晋に朝献したが、これは北朝の魏と国を接しており、その牽制の意味を込めていたのであろう。南朝の晋も、百済・倭国など外藩の諸国を册封体制に組み入れようと必死であつた。413年の晋書にある倭国の晋への朝献は、晋が高句麗に倭国への仲立ちを頼んだのであって、倭国の朝献が実際にあったのではないと考える。
 

416年晋の安帝は、使者を百済に派遣して、王を册命して「鎭東将軍・百済王」の称号を与えている。晋が使者を百済に派遣して称号を与えたのは、高句麗の仲立ちがあったと考える。413年以降、好太王が亡なり長寿王になってから、高句麗と百済・倭国の争いはない。仁徳35年(417年)に高麗の王が使者を派遣してきた上表文に「高麗王、日本国に教える」とあるのは、「晋に朝献せよ」と言うことであったと考える。南朝への朝献は、倭国としても気になる所であったので、420年宋が建国されると、その翌年仁徳天皇(讃)は宋に朝貢し、叙授を賜った。
 

書紀の仁徳42年(424年)に「呉国・高麗国が朝貢した」とある。これは呉国(宋)が文帝の即位に際して、高麗国と一緒に大和朝廷に使者を派遣して、「宋に朝貢せよ」との上表書を持ってきたと考える。425年の宋書倭国伝に記載された「讃又遣司馬曹達 奉表献方物」は、通説では「讃が司馬曹達を宋に遣わし、上表貢献した」としている。しかし、「司馬」の姓は晋王朝に連なるものであり、宋の使者であったと思われる。424年に宋の使者・司馬曹達が倭国に上表書を持ってきて、司馬曹達が宋に帰国したのが425年であったと考える。
 

426年、仁徳天皇は司馬曹達の要請に応え、阿知使主を宋に派遣した。書紀は「阿知使主・都加使主を呉に遣して、縫工女を求めさせた。阿知使主らは高麗に渡って、呉に行こうと思ったが道が分らず、道を知っているものを高麗に求めた。高麗王は久礼波・久礼志の二人をつけて道案内させた。これによって呉に行くことが出来た。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人を与えた。」と書いている。430年に阿知使主は、呉の王から授かった四人の縫女を伴い筑紫に帰国した。430年の宋書の倭国王の朝献の記述は、阿知使主の帰国の事を言っていると思われる。
 

434年仁徳天皇崩御し、翌年履中天皇が即位したことと、438年の「倭王讃死して、弟(子)珍立つ。使いを遣わして貢献す。」は、全く一致している。もちろん、「弟」を「子」に替えての話である。元年表を基にして、書紀の仁徳紀の呉国との交流記述と、宋書の讃王の朝献記述を比較すると見事に一致している。ただ、晋や宋が朝献要請の使者を派遣した事も、倭国が朝献してきたごとくの表現をしているように思える。

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