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17-4.高句麗と百済、新羅と倭国の戦 [17.空白の4世紀を解く]

広開土王の時代は書紀の編年通りにみると、応神天皇3年から25年にあたる。この期間は、「七支刀に刻まれた年代」で述べた通り、朝鮮との関連記述は120年加算して編年する期間に該当し、私の年表では仁徳10年から仁徳31年にあたる。広開土王の時代の朝鮮と倭に関する事柄を、広開土王碑文、三国史記、日本書紀の記述を表13に記載した。 
                                              (表をクリックすると大きくなります)
表13広開土王.jpg広開土王碑には、391年の記述の前に、「百済・新羅はもとから高句麗の属民で朝貢して来ていた」とある。三国史記でみると、高句麗と百済の争いは、七支刀の記述にあったように、369年から始まっている。この369年から390年までの間で、高句麗が百済に攻め込んだのが6回、百済が高句麗に攻め込んだのが4回である。389年、390年と高句麗は百済に攻め込まれている。これから見て両者は互角であり、広開土王碑にある、百済が高句麗の属国であったと言えない。 

三国史記を編纂した金富軾は、広開土王碑の碑文は見ていないであろうが、両者の歴史の流れについては非常に良く似ている。また、日本書紀の記述が「百済記」を参照して書かれているためか、三国史記と非常に話が通じている。ただ倭国の百済に対する高圧的な態度は、史書によくある誇張が入っているものと思う。三国史記によると、392年に百済は高句麗に敗れている。392年の日本書紀には、「百済が倭国に礼を失した」としている。また、広開土王碑には396年に百済は高句麗に討伐されたと彫られている。397年の日本書紀には、「百済が倭国に無礼をした」と記載している。百済の倭国に対する「無礼」とは、高句麗との戦いに負けたという事であろう。
 

広開土王碑と三国史記、そして日本書記とを比較して考えると、392年から413年の広開土王が在位した、22年間の朝鮮半島における歴史の史実は、高句麗と百済、新羅と倭の争いがあり、高句麗と新羅、そして百済と倭の同盟関係があったということで、従来考えられていた倭が百済を破り従え、高句麗と直接戦闘を交えたことではなく、百済と倭の同盟軍が高句麗と戦ったということだと考える。ただ、その同盟も人質を出しての同盟関係でそれほど強くない。キャスチングボードを握っていた倭国に、高句麗も新羅も接触してきている。 広開土王が即位した当初、高句麗は百済に対して優位な立場にあり、南下を果たすことが出来たが、百済が倭との同盟関係をむすんでからは、その南下政策が思いにまかせず、高句麗にとって、倭が目の上のたんこぶとなり、好太王碑の碑文の表現になったと思われる。


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