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17-3.広開土王碑に彫られた時代 [17.空白の4世紀を解く]

広開土王碑(好太王碑)は現在の中国の吉林省集安県の鴨緑江中流域の江畔、およそ1㎞の所にある。碑は広開土王のものと言われる将軍塚と大王陵の中間にあり、その昔高句麗の王都、丸都城のあった地域である。この碑は1880年この地の農民が発見し、1884年(明治17年)に日本陸軍の酒勾景信大尉が、日清戦争の諜報活動の最中に見つけ、この碑文の拓本を得て日本に持ち帰り、参謀本部で読解が行われた。 

中国の史書は歴史資料として価値の高いものであるが、しかしその史書が現在まで伝わっているのは原本でなく写本である。この写本を行っていくなかで、脱字・脱行・あるいは別の字との置き換わりがなされた可能性がある。この点から考えると、広開土王の碑文は古代に刻まれたそのままが残っており、歴史資料としては一級のものといえる。しかしながら、碑文の倭国に関する事項が、明治から昭和にかけて日本の覇権主義者にとって、都合の良い内容であり、まして、最初の関係者が軍人であったことなどから、改ざんが行われたのではないかと言う説もある。
 

この碑は、高句麗の広開土王(392年~413年)の業績を讃えるため、没後2年に息子の長寿王により、414年に建てられたものである。広開土王碑は高さ6.3m、幅1.4~1.9m。碑には約12cm四方の大きさで、深さが6㎜程度の文字が、四面に渡って約1800字刻まれている。碑文は三段からなり、第一段は高句麗の開国伝承と建碑の事情、第二段は王の功績、第三段は墓守りに関するものである。倭国に関する記述があるのは第二段で、広開土王が四方に領土を拡大した業績を讃美した部分の中にある。
 

この碑文は建立された当時のままであるが、その内容は史実の通りであろうか。好太王の業績を讃えるため、史実を伝えながらも表現が誇張されたり、正悪・強弱・勝敗・攻守など、反対であることも考えられる。広開土王の時代について、朝鮮の史書「三国史記」、日本書紀と比較してみる。
 三国史記は1145五年に、金富軾により編纂されたものである。広開土王碑は414年息子の長寿王により建立されたものであり、資料としての価値は広開土王碑に軍配があがる。しかし、三国史記には高句麗のみならず、百済・新羅から見た客観性のある記述があり、好太王碑の内容をチェック出来ると考えた。また、広開土王の時代の、朝鮮半島と大和朝廷との出来事を日本書紀に求めた。
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