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17-2.七支刀は百済と倭国の同盟記念 [17.空白の4世紀を解く]

表12七支刀.jpg七枝刀に象嵌された369年前後は、書紀には百済・新羅の記述が毎年のように記載されている。この間何があったのか、日本書紀と三国史記を比較し、表12に示した。もちろん、これらの記述は七枝刀の記述と同じように、書紀から割り出した年月に120年加算して編年し、私の年表で、どの天皇の何年にあたるかも併記した。  
              (表をクリックすると大きくなります)
それでは、肖古王の立場に立って、七支刀を奉じた事情を考えてみる。
百済の肖古王にとって、高句麗の南下政策は脅威であった。高句麗と戦うためには背後の新羅からせめられることがない政策を取る必要にせまられていた。そんな最中、366年に倭国の使者がやってきた。そこで倭国をして新羅を牽制しようと考えた。肖古王は使者を丁重にもてなし、多くの土産物を持たせて帰した。367年には倭国に使者を派遣し、新羅が百済の倭国への貢物を奪ったと報告した。倭国は新羅に対して敵意を抱いた。それだけでは不安であったので、新羅に使者を派遣し、良馬二頭を送る懐柔策も取った。 

369年春3月、倭国が新羅に戦いを仕掛けたので、肖古王は王子貴須と共に倭国軍に援軍を派遣した。幸い倭国は勝利を治め、耽羅が百済の領土となった。そこで百済と倭国は同盟を結んだ。これを記念して5月に七支刀を造り始めた。秋7月になって、高句麗王斯由が三万の兵で南進し、百済に攻め込んできた。肖古王はこれを撃破することが出来た。
371年再び高句麗が百済に攻め込んできたがそれを撃破し、逆に高句麗領土の平壌まで攻め込み、高句麗王斯由を打ち取った。これも倭国との同盟があったからのことである。かねてより製作依頼していた七支刀が出来たので、倭国に使者を送って奉じた。 

七支刀象嵌文字、日本書紀、三国史記はその内容が見事一致しており、神功46年の記述から65年までの朝鮮に関する記述は、書紀から割り出した年月に120年加算して編年すれば、史実を表していることが明白である。七支刀は百済と倭国の同盟の記念品であった。

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