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15-4.神功皇后は船で都に攻め込む [15.神功皇后新羅征討は創作か]

慶州を通り迎日湾に流れ込む兄山江は、慶州から浦項の河口まで約32km、標高差27mである。因みに、和歌山の紀の川は江戸時代、橋本までの水運が盛んに行われている。河口から50kmの橋本では標高差73mで、30km地点での標高は37mである。流域面積と地形からして、兄山江は紀の川に比較して水量が少ないと思われるが、小形の船ならば河口から都・金城の近くまで、兄山江を遡上出来ると思われる。 書紀の文章の「海水が国の中まで上がって来た」、「国が海となるかも知れない」とは、大津波の如く海水が上がって来たという事ではなく、予想もしなかった軍船が川を遡上してきたという事の比喩で、新羅の都の金城の近くまで軍船が来たことを表現していると思われる。 

図43 弥生大型船.jpg図43は岐阜県大垣市の荒尾南遺跡の弥生時代の方形周溝墓の溝から、1996年に出土した広口壺に線刻されていた絵画である。3艘の船が描かれていて、中央の船は82本のオールを持つ大型船で、船の船首と船尾は反り上がって扇形に広がっている。中央と船尾には2本ずつ旗がなびいている。もしかするとこれは帆かも知れない。この船の前後に小形の帆船が各1艘伴走しているように描かれている。私は神功皇后の船団は、この線刻画のイメージで、皇后が乗った大型船と、河を遡上出来
る小形の帆船からなる船団である。小形の多数の帆船が都まで
攻め上ったと考える。
 

津田氏は「此の物語によると、我が軍は新羅の都城まで押し寄せたように見えるが、これについては、歴史的事実の明らかにわかる時代に於いては、我が軍が幾度も新羅と戦いながら、都城まで進んでいったことがあるらしい形述は一度も無い、ということを考えねばならぬ。高句麗の広開土王の碑文の新羅の形勢を叙しているところに『倭人満其国境、潰破城池』とあるから、かなり優勢な我が軍が新羅の国内に攻め込んでいたらしい事例はあるが、この場合とても国都まで入っていたかどうかは、この文面ではわからぬ。・・・中略・・・倭人が金城を攻めたという話があるとすれば、少なくとも或る場合に、日本軍が都城もしくは其の付近まで進んだことはあったかと思われぬでもない。また次に述べるように、新羅が一時我が国に屈服したことは事実らしいから、この点から見ても、或る場合に都城付近まで日本軍に攻め込まれた事が無かったとは言われぬ。さすれば、歴史的事実の明らかにわかる時代にそういうことの無かったのは、後に言うように半島の形勢の変化から、我が国の勢力の衰えたためかも知れぬ。しかし、もとより確実にそうと推断するほどの微証は無く、・・・中略・・・やはり昔から我が国に伝わっていた話でなく、はるか後世に新羅人から聞いた話を記したものらしいから、それを我が国の古い資料から出たものとして考えるわけにはゆかぬ。よし都城まで進軍したことがあるにせよ、それは加羅を根拠として、草羅から陸路東北に向かったであろう」と述べている。
 

「昔から我が国に伝わっていた話でなく、はるか後世に新羅人から聞いた話を記したものらしいから、それを我が国の古い資料から出たものとして考えるわけにはゆかぬ」という結論は分かったが、何故そういう結論に至ったかは明確に記載されてなく、非常に曖昧である。この文章でもって、神功皇后の新羅征伐は後世の創作であると言われても納得が出来ない。私は「書紀には史実が何処かに書かれている」と考えて読んでいるが、津田氏は「史実が書かれて無い」との結論が先にあるように感じる。

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