15-3.神功皇后の新羅征伐ルート [15.神功皇后新羅征討は創作か]
書紀は次のように記している。「冬10月3日鰐浦(対馬上県郡)から出発された。風は順風が吹き、帆船は波に送られた。舵や楫を使わないで新羅についた。そのとき船をのせた波が国のなかまでに及んだ。新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。多くの人を集めて『新羅の建国以来、かつて海水が国の中まで上がって来たことは聞かない。天運が尽きて、国が海となるかも知れない』と。その言葉も終わらない中に、軍船海に満ち、旗は日に輝き、鼓笛の音は山川に響いた。」
書紀の文章を理解するには、新羅の都・金城、現在の慶州の地理を理解しておく必要がある。慶州は朝鮮半島の南東にあり、周りを低い山に囲まれた盆地にある。南から流れて来た兄山江は慶州を通り、浦項で迎日湾に流れ込んでいる。兄山江は韓国では日本海に注ぐ河川のなかでは最大の河川である。
津田氏は次のように言っている。「皇后の親征であるが、この話に地理がまるでないことである。何処まで船で行って何処から上陸せられたか、それから何の道をどう進軍せられたか、それが話の上にすこしも現れていない。事実譚としては、これは甚だ奇怪なことである」。そして、「記紀の文面から漠然想像をすると、国都付近まで舟で押し寄せたように見えるが、もしそうだとすると、新羅の都城は今の慶州であるから、その東海岸の迎日湾になるが、迎日湾は風波の荒いところで、上陸地点にはならぬ。その上、韓半島の東南角を迂回して新羅の東方に出るのは可なり困難な航路であり、そうして、前にはすぐ敵を控えて後には何の足だまりも無いという、こんな進軍路は出来るだけさけなければならないことは、いうまでもない。」と書いている。
韓国教育大学歴史教育科の教授陣で作った「韓国歴史地図」の「新羅建国」の項に図42がある。この図は三国史記に記載された、232年か
ら392年までの、新羅への倭人の侵入を、東海岸からと想定して図化
している。232年・364年・393年は迎日湾から慶州への侵入も
考えられている。これらの年代に史実として倭人の侵入があったかどう
かは分らないが、韓国の学者
が迎日湾から都・金城への侵入を想定されている。津田氏の言われる、
東海岸からの神功皇后の親征が在り得ない、と言うことではない。なお、
私の年表では神功皇后の新羅征伐は353年となっている。
(図をクリックすると大きくなります)
書紀の文章を理解するには、新羅の都・金城、現在の慶州の地理を理解しておく必要がある。慶州は朝鮮半島の南東にあり、周りを低い山に囲まれた盆地にある。南から流れて来た兄山江は慶州を通り、浦項で迎日湾に流れ込んでいる。兄山江は韓国では日本海に注ぐ河川のなかでは最大の河川である。
津田氏は次のように言っている。「皇后の親征であるが、この話に地理がまるでないことである。何処まで船で行って何処から上陸せられたか、それから何の道をどう進軍せられたか、それが話の上にすこしも現れていない。事実譚としては、これは甚だ奇怪なことである」。そして、「記紀の文面から漠然想像をすると、国都付近まで舟で押し寄せたように見えるが、もしそうだとすると、新羅の都城は今の慶州であるから、その東海岸の迎日湾になるが、迎日湾は風波の荒いところで、上陸地点にはならぬ。その上、韓半島の東南角を迂回して新羅の東方に出るのは可なり困難な航路であり、そうして、前にはすぐ敵を控えて後には何の足だまりも無いという、こんな進軍路は出来るだけさけなければならないことは、いうまでもない。」と書いている。
韓国教育大学歴史教育科の教授陣で作った「韓国歴史地図」の「新羅建国」の項に図42がある。この図は三国史記に記載された、232年か
ら392年までの、新羅への倭人の侵入を、東海岸からと想定して図化
している。232年・364年・393年は迎日湾から慶州への侵入も
考えられている。これらの年代に史実として倭人の侵入があったかどう
かは分らないが、韓国の学者
が迎日湾から都・金城への侵入を想定されている。津田氏の言われる、
東海岸からの神功皇后の親征が在り得ない、と言うことではない。なお、
私の年表では神功皇后の新羅征伐は353年となっている。
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2011-08-27 00:00
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コメント(2)
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「日本海」は「日本海」であり、「日本海」以外の何ものでもありません
by NO NAME (2013-05-18 14:38)
朝鮮戦争でマッカーサーが指揮するアメリカ兵が仁川へ上陸してソウルを占領した様に、倭軍が迎日湾へ船を碇泊させて新羅の都である金城を制圧したんですね。
by お名前(必須) (2017-12-28 22:30)