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15-2.書紀は津田左右吉氏より正確 [15.神功皇后新羅征討は創作か]

神功皇后が新羅の国に攻め込んで、新羅が降伏した時の様子を「新羅王波沙寐錦(はさむきん)、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた」と書紀は書いている。 

この文章にある「新羅王波沙寐錦」について、津田氏は次のように述べている。「新羅王波沙寐錦は、王として三国史記などに見えない名である。『波沙寐』は多分新羅の爵位の第4級『波珍』の転訛で、『錦』は尊称ではなかろうか。もしそうとすれば、これは後人の付会であって、本来王の名として聞こえていたのでは無い。・・中略・・この名およびこの名によって語られている人質の派遣と朝貢との話は後に加えられたものであることが、文章の上から、明らかに知られるようである」。
 

中原高句麗碑という韓国の国宝がある。これは1978年に韓国の忠清北道忠州市(ソウル南東100km)で発見された石碑で、高さ2m、幅0.55mの石柱の四面に刻字があり、5世紀前半の高句麗の碑石であることが判明した。この碑文の中に「新羅寐錦」の文字がある。「高麗太王」と「新羅寐錦」の関係は「如兄如弟」とあり、新羅寐錦は新羅王を指していることが分る。1988年に慶尚北道蔚珍郡竹辺面で石碑が発見され、蔚珍鳳坪碑と名付けられ国宝となった。この碑は新羅の法興王11年(523年)に建立されたもので、新羅が高句麗から奪回した領地に「寐錦」の視察があったことが刻字されている。
 

4世紀末から5世紀の朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)ならびに倭の関係を記した有名な広開土王碑(好太王碑)がある。この石碑の第3面の2行目には
「新羅寐錦」の刻字がある。ただ、「新羅寐錦」と読まれたのは、中原高句麗碑や蔚珍鳳坪碑が発見された後であり、それまでは「新羅安錦」と読まれていた。 

日本書紀の神功記には「新羅王波沙寐錦」とあり、広開土王碑・中原高句麗碑・蔚珍鳳坪碑に刻字された「寐錦」という文字が、新羅王を表わす君主号であることと一致している。「寐錦」と言う言葉は、史実の伝承として後世に残らなかった言葉であり、決して後世の人が付け加え出来る言葉ではない。日本書紀は津田氏や歴史学者より、「寐錦」の言葉を正確に伝えている。
 

神功記では、新羅は「微叱己知波珍干岐」を人質として差し出している。「波珍」とは新羅の爵位の第4級の官位で、王族・貴族に属するものに与えられる。5年後、新羅王は朝貢の使者を派遣し、人質奪回を画策している。人質微叱己知が王族であったからであろう。津田氏は人質微叱己知についても、「書紀の記載はずっと後に新羅人から聞いた事を記したものであるらしく、古くからわが国に伝えられていた記録から出た物ではあるまい。だからそれに幾らかの事実の基礎があるにしても、それは本来神功皇后親征の物語に結びつけられるべきものではない。」と述べている。
 

書紀は百済の史書(百済記・百済新撰・百済本記)を参照しているが、新羅の史書は参照していない。津田氏の「ずっと後に新羅人から聞いた事を記した」というのは、詭弁であるように感じる。神功皇后の新羅征伐が架空のものであるならば、新羅の官位「波珍」まで正確に記載するであろうか、書紀の記載は史実が含まれていることを暗示している。
 

日本書紀は史実を書いていると、私は思っている。しかし、書かれている全てが史実であるとは思わない。正悪・勝負・強弱・奪譲が反対の事もあるだろう。誇張や比喩、ことばの綾、作り話もあるだろう。それらを考古学が発見した現物や、歴史学だけでない他の分野の情報でもって選別して行けば、書紀に隠されていた史実が表われ、日本の歴史が解明出来ると考える。全てを否定したならば、史実は何も見えて来ないであろう。

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