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14-2.大神氏(三輪氏)の系譜 [14.大田田根子の謎を解く]

大田田根子の父は大物主神としているが、大物主神は大己貴命(大国主命)であり、大田田根子の登場する崇神紀とは時代齟齬がある。大田田根子の父を大物主神としたのは、大田田根子の父は、大己貴命に繋がる大神氏の一族であったからであろう。大田田根子の出自の別説の「奇日方天日方武茅渟祀の女」を、「父は奇日方天日方で、母は武茅渟祗の娘の活玉依姫」と解釈する。「奇日方天日方」なる人物は、大神氏の系譜には、神武天皇の妃である姫蹈鞴五十鈴姫命の兄として載っている。奇日方天日方は三島の溝橛耳の孫、大和事代主神の息子となる。 

茅渟祗(たけちぬつみ)は誰であろうか。京都の下鴨神社の祭神は賀茂建角身命と娘の玉依姫である。茅渟祗(たけちぬつみ)と建角身(たけつぬみ)とは非常に発音が似ている。茅渟祗の娘は活玉依姫、建角身の娘は玉依姫と両者の娘は同じ名前である。茅渟祗と建角身は同一人物と考える。新撰姓氏録によると建角身命は神武天皇を熊野から宇陀まで案内した八咫烏であるとされている。山城風土記(逸文)によると、建角身命は大和国葛城から山城国岡田賀茂(京都市木津川市)を経て洛北の下鴨神社に鎮まったとある。奇日方天日方がいた三島から木津川を遡ぼり、奈良市を通って三輪山に至る、丁度中間地点に山城国岡田賀茂がある。奇日方天日方が賀茂建角身命の娘・玉依姫を娶り大田田根子が生れたと考える。大田田根子が天日方奇日方の息子となれば、大田田根子は大神氏(三輪氏)の宗家で、大神氏の始祖として相応しい。 

奇日方天日方命以降の
大神氏の系譜を見ると、①奇日方天日方命→②飯肩巣見命→③建甕尻命→④豊御気持命→⑤大御気主命→⑥建飯賀田須命→⑦大田田根子命となっている。大田田根子命は奇日方天日方命の6代後の子孫である。天皇家の系譜は初代が神武天皇で10代が崇神天皇である。2代の綏靖天皇から9代の開化天皇までの8代は、歴史を延長さするために創作された天皇であると考えた。書紀によれば、2代綏靖天皇の皇后は事代主神の次女五十鈴依姫であり、3代の安寧天皇の皇后は事代主神の孫の渟名底仲媛であると、創作された天皇に大神氏が絡んでいる。大神氏の系譜も天皇家の系譜の影響を受け、②の飯肩巣見命から⑥の建飯賀田須命まで、創作された系譜と考える。 

大神氏の系譜を、①素戔烏尊→②大国主命→③出雲事代主命→④丹波事代主命→⑤大和事代主命→⑥奇日方天日方命→⑦大田田根子命と考えると、大田田根子命の父は奇日方天日方命となる。
新撰姓氏録の摂津国神別「神人」、大和国未定雑姓「三歳祝(みとしのはふり)」の補注に「大国主命の五世孫、大田々根子命の後なり」とある。私の考える大神氏の系譜とピッタリ合致する。奇日方天日方命と神武天皇の妃・姫蹈鞴五十鈴姫は兄と妹であり、大田田根子命と崇神天皇が同時代であっても時代齟齬はない。 

崇神5年(254年)に倭迹迹日百襲姫命が神懸かり、大田田根子を大物主神の祭主にせよとのお告げをしている。その倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼と比定されている。魏志倭人伝によると卑弥呼は248年頃に亡くなっており、時代の齟齬がある。倭迹迹日百襲姫命は崇神10年(259年)に箸墓に葬られている。その箸墓古墳の築造年代は、
国立歴史民俗博物館の炭素14年代の測定により、240~260年頃と発表された。私の年表の精度は確かであり、崇神5年(254年)に倭迹迹日百襲姫命が生存していた事はあり得ない。

崇神天皇に大物主神を祀るように、大田田根子命を祭主にと吹き込んだのは、倭迹迹日百襲姫命ではなく、姫蹈鞴五十鈴姫命でなかったかと思っている。姫蹈鞴五十鈴姫命から見れば、大物主神(大己貴命・大国主命)は直系の先祖であり、大田田根子は兄の息子である。姫蹈鞴五十鈴姫命に霊能力があったかもしれない。日本書紀には「天皇の姑(おば)、倭迹迹日百襲姫命は聡明で、よく物事を予知された」とある。倭迹迹日百襲姫命を姫蹈鞴五十鈴姫命に置き換える。姫蹈鞴五十鈴姫命は崇神天皇(壱与・御間城姫)からすると姑・しゆうとめ」にあたる。
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