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13-2.畿内説にとっての倭国 [13.邪馬台国畿内説を斬る]

魏志倭人伝には「其の国、もと亦男子を以て王となす。住まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり。乃ち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼と曰う」とある。卑弥呼が共立されて倭国の女王となったのは、倭国大乱の直後で2世紀の終わり、190年頃であると考えられている。時代区分で言うと、弥生時代後期の終わり終末期の初めである。 

図33矛・銅鐸鉛同位体.jpg弥生時代後期の日本(倭国とすると誤解が生じる)は、銅矛を祭器とする文化圏と銅鐸を祭器とする文化圏に分れていたことは良く知られている。弥生後期の銅矛と銅鐸の分布を明示するためには、同時代の銅矛と銅鐸で表わさなければならないが、両者が共存して出土したことは少なく、同じ時代の銅矛と銅鐸の型式を合わせることは難しい。銅矛と銅鐸は形状による編年が確立しているので、型式別に鉛同位体比を図33にプロットしてみた。銅矛は古い順から、細形・中細形・中広形・広形である。銅鐸は古い順から、菱環鈕・外縁1鈕・外縁2鈕・扁平鈕・突線鈕である。
 


図34銅矛分布図.jpg図33からは、細形・中細の銅矛と菱環鈕・外縁1鈕の銅鐸が2.12以下で、中広形・広形の銅矛と外縁2鈕・扁平鈕・突線鈕の銅鐸が2.1以上で、明確に分れることが分かった。これらから、中広形・広形の銅矛と外縁2鈕・扁平鈕・突線鈕の銅鐸は同じ時代の、弥生後期に造られたものであると考えた。図34に銅矛の旧国別の出土数、図35に銅鐸を表わした。やはり、九州を中心とする銅矛文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏に分れている。
 



図35銅鐸分布図.jpg銅鐸はもちろんのことであるが、銅矛の中広形・広形も祭器として使用されたと考えられている。祭器が違うということは宗教が違い、宗教の違う同士は共存してはいない。例えば、キリスト教とイスラム教、カトリックとプロテスタント、シーア派とスンニー派、と昔から今に至るまで宗教の対立は激しい。日本の神道と仏教は長い歴史の中で神仏混合の時代もあったが、仏教が伝わった初期の段階では、神道の物部氏・中臣氏と仏教の蘇我氏のように激しく対立している。


                              (図をクリックすると大きくなります)
邪馬台国畿内説にとって、卑弥呼を共立した倭国はどの範囲をいうのであろうか。
九州を含めた近畿以西、銅矛文化圏と銅鐸文化圏の両方を含む地域と考えているのだろうか。銅矛が祭器の国と銅鐸が祭器の国、宗教の違う国が一つの倭国を形成し、卑弥呼を共立したとは考えられない。もし考えられるとすれば、邪馬台国は銅矛と銅鐸の両方の祭器を使用する国、出雲か吉備でしか考えられず、邪馬台国畿内説は成り立たない。宗教の違った地域が、一つの国になるときは、共通の外敵があるか、強い権力者がいるか、それとも民主主義で選挙があるときだ。
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アマテルさまの使い

ホツマツタエによれば、アマテルさまの孫の代に、兄のホノアカリが10種の神器を授けられ、飛鳥の宮を建設、その後、弟の二二キネがトのヲシテ、ヤタの鏡、剣の3種がアマテルさまより、神器を与えられ、2朝並立状態になったとあります。二二キネは、3男のウツキネ(山幸彦)を筑紫親王に任命したものの、次男(海幸彦)から嫉妬されたため、自身で筑紫に御幸し晩年の人生を過ごしたとあります。その後ウツキネが筑紫を収めることとなり、二二キネの長男の子のクニテル(ニギハヤヒ)が後継のいないホノアカリの後任として飛鳥親王になります。銅鐸は飛鳥王朝の祭器、銅矛は筑紫王朝の祭器であったのではないかと考えられます。その後、世の中が混乱認め、ウツキネの孫のタケヒトが東征して大和の飛鳥王朝を打ち政権を統一したことが書かれています。
by アマテルさまの使い (2017-09-22 16:23) 

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