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12-4.饒速日命の出自を探る [12.神武以前に大和に来た神々]

饒速日命ついて神武天皇紀では、磐余彦尊(神武天皇)が東征するに際し「東の方に良い土地があり、饒速日(にぎはやひ)が天の磐船に乗って天降りしている」と言っている。そして建国後、国見をした時「饒速日命は、天の磐船に乗って、この国に降りになったので、名づけて『空見つ日本の国』という」とある。「饒速日」が「饒速日命」と格上げされているのは、磐余彦尊が大和に攻め込んで長脛彦と対峙したとき、長脛彦が「昔、天神の御子の饒速日命が天磐船に乗って天降りされ、我が妹を娶り可美真手命が生れた。私は饒速日命に仕えている」と言って、天孫の証拠として天の羽々矢を示し、磐余彦尊が「偽りではない」と饒速日命を天神の子と認めたからだ。 

天の羽々矢は神代の中で出雲の国譲りに出て来る。天穂日命が高天原から出雲に天降りした後、大己貴神におもねって、三年経っても復命しなかった。そして高皇産霊尊が天稚彦を出雲に遣わすとき、天の羽々矢を授けている。饒速日命を河内に天降りするときも、天の羽々矢を授けられたのであろう。だから、磐余彦尊が長髄彦に対して、饒速日命が天神である証拠を見せろと言ったときに、天の羽々矢を差し出す事が出来たのであった。 饒速日命が高天原から河内に天降りしたことを示唆している。

ただ、日本書紀の神代には、饒速日命の事は一切書かれていない。『先代旧事本紀』では、饒速日命を天照大神の孫の火明命と同一神として扱つかい、名前を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とし、河内国の河上の哮峯に天降りされたとしている。先代旧事本紀では尾張氏と物部氏が共通の先祖を持っていた事になっているが、日本書紀では火明命は尾張連らの遠祖、饒速日命は物部氏の先祖としている。 

新撰姓氏録は平安時代(815年)に京と畿内にすむ1182氏族の始祖・出自を調査したものだ。始祖が神代の時代の404氏族を、天孫・天神・地祇の三つに分類している。始祖が天照大神の子供と瓊瓊杵尊以後の日向3代の子孫の場合は天孫、高天原にいた神々は天神と扱われている。面白い事に、高天原を追放され出雲に行った素戔鳴尊と子の大国主命を始祖に持つと地祇であるが、出雲に天降った天穂日命を始祖に持つと天孫である。始祖が神武天皇以後であれば皇族、外国から渡来帰化した氏族は諸蛮、出所不明な氏族を雑姓となる。饒速日命を始祖とする、物部氏に繋がる氏族は「天神」とされ103氏族ある。火明命を始祖とする、尾張氏に繋がる氏族は「天孫」とされ53氏族ある。饒速日命と火明命は明確に区別されており、先代旧事本紀に示す同一神ということにはなっていない。本件に関して先代旧事本紀は信用できない。

それでは、饒速日命の出自を明らかにしてみよう。新撰姓氏録の天神の中で、高魂命を先祖に持つ氏族に小山連がいる。この備考には「高魂命の子、櫛玉命の後なり」とある。高魂命は高皇産霊尊のことであるとされており、また饒速日命は櫛玉饒速日命とも書紀に書かれてあり、櫛玉命とも呼ばれるようだ。これらより、饒速日命は高皇産霊尊の子であることになる。高皇産霊尊の子といえば思兼神がいる。天照大神が天の岩屋に籠られたとき、深謀遠慮をめぐらしたのが思兼神である。思兼神は思慮に優れていたと書かれているが、出雲の平定の話には出て来るが、瓊瓊杵尊の天孫降臨以降の話には全く出て来ない。
 

図16岡水門.jpg私は次のように考える。高皇産霊尊は葦原中津国を平定しようと、出雲に天照大神の子の天穂日命を天降りさせ、日向に天照大神と高皇産霊尊の孫の瓊瓊杵尊を天降りさせた。そのあと高皇産霊尊が亡くなり、子の思兼命が後を継ぎ2代目高皇産霊尊となり、子の饒速日命を東の国に天降りさせたと考える。新撰姓氏録の中に、未定雑姓の分類で「神饒速日命、天降りましし時の従者」として3氏族がある。二田物部、嶋渡物部、坂戸物部である。7章2節(7-2)で示した、図16に二田物部があり、嶋渡物部は嶋戸物部であり、物部の出身地が遠賀川周辺であることが分かる。饒速日命(物部氏の始祖)は遠賀川流域に         (図をクリックすると大きくなります)
領地を以っていたのであろう。


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