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12-2.出雲の国譲り [12.神武以前に大和に来た神々]

日本書紀の神代上には、天照大神の弟の素戔鳴尊は、高天原(北部九州)を追放されて出雲に行き、国つ神の娘・稲田姫を娶り、大己貴命が生まれた。大己貴命は小彦名命と力を合わせて出雲の国造りを行った。大己貴命は大国主神・大物主神など7つの名前があるとの話が記載されている。日本書紀の神代下は、出雲の国譲りの話から始まっている。高天原で権勢をふるっていた皇祖の高皇産霊尊は、出雲の国を支配下に入れようと、天照大神の息子の天穂日命を出雲の国に派遣した。しかし、天穂日命は大己貴命におもねって、復命しなかった。その後も、高皇産霊尊は再三に渡り家来を出雲に派遣し、国を譲るように迫った。大己貴命は息子の事代主命と相談して、国を譲る事を決断した。

高皇産霊尊は大己貴命に対して、現世の政治の事は皇孫の天穂日命が行うので、天日隅宮(杵築大社・出雲大社)を建てるから、大己貴命は幽界の神事を司るようにと命じている。「幽界の神事を司る」とは、戦国時代の言葉で言うならば「腹を切って死んだなら、神として祀ってやる」と言う事であろう。書紀の話が少しややこしいのは、「大己貴命は高皇産霊尊の命に従い、永久にお隠れになった」と記載している後に、大物主神と事代主神が登場し、高皇産霊尊が大物主神に「お前が国つ神を妻とするなら、まだ叛く心があると考える。わが娘の三穂津姫を妻とせよ。八十万の神を引き連れて、皇孫を守るように」と言って、地上に降下させていることだ。大己貴命と大物主神は同一神であるから、永久に隠れた神が再び地上に降下するのはおかしいことで、私は大己貴命(大国主神)の息子の事代主命が三穂津姫を娶り、地上に降下したと考える。戦国時代の言葉で言うならば「息子は恭順の証として我娘を娶れ、そうすれば命は助けてやる」である。 

出雲大社の祭神は大国主大神の一神で、三穂津姫は祀っていない。島根県松江市美保関町に美保神社があり、祭神は事代主神と三穂津姫命である。これは事代主神と三穂津姫が夫婦であることを暗示しているように思える。京都府亀岡市の出雲の地に、古来より「元出雲」と言われている丹波国一之宮であった出雲大神宮がある。この神社の祭神は明治以降大国主命と三穂津姫命であるが、それ以前は三穂津姫命一神であった。神社の由緒書きによると、丹波国は出雲勢力と大和勢力の接点に当たり、当地で出雲の国譲りが行われたとある。 

大和朝廷は神話に出て来る高天原を、大和の葛城にあったと考えていた。この考えに基づけば、出雲大神宮の由緒書きの通り、丹波の元出雲で国譲りが行はれ、大国主命が丹波の出雲から、島根の出雲に行ったと考える方が妥当である。しかし、神話に出て来る鏡・剣・矛は、大和では出土せず、圧倒的に北部九州の弥生遺跡から出土していることから、高天原は北部九州にあったと考えた。また、出雲の国譲りの舞台は、五十田狭の小汀という海岸である。丹波には海岸はない。丹波の元出雲が島根の出雲より先に存在したとは考えられない。丹波の元出雲の地は、事代主神と三穂津姫命が新たな国を求めて、島根の出雲より出て留まられた所と考える。出雲大神宮の祭神は三穂津姫命だけでなく、事代主神(現在は摂社の笑殿社に祀られている)の二神であったと推察する。


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須賀の語部

 古事記の出雲神話は弥生後期の四隅突出型墳丘墓と古墳時代を先取りした王墓が造成された時代と不思議とマッチすると。渡辺島根大学名誉教授が季刊「考古学」に書いておられた。
 私の解釈だとこうだ。こたつ状の形をした四隅突出墳丘墓の分布は東は島根県の安来市、西は出雲市を中心とした王族が造成した。発達時期は東が若干早く、数は東が、大きさは西のものが大きく国内最大級のものがある。しかし両者とも出雲の中では、数量、規模とも他を圧倒している。つまりこれは、東はスサノオの王国、西はオオクニヌシの王国があったと考えるとすると説明がつく。これが古墳時代に入ると、墳丘墓(古墳)を突然作らなくなる。この西の勢力の衰弱が、国譲りを表しているとピッタリ符合する。それでも西の勢力は古墳時代中期には回復し、当時全国的に流行していた前方後円墳を作り始める。一方東部は四隅突出墳丘墓の伝統を濃厚に引き継いだ、方墳、前方後方墳を頑なに作り続け、奈良時代までの500年間栄える。また、古墳時代に埋葬された大刀の東西の差異も面白い。東部は装飾性の強い大刀で蘇我氏系のもので、西部は装飾性が弱く、物部氏系のものであると考古学者は言っている。つまり、大和朝廷の有力豪族として東部は入廷し、西部は吉備で栄えた大和朝廷の有力豪族物部氏の軍事侵攻に屈したと解釈するのが自然だろうと考えられる。今年は島根県が神話博しまねをやっているのでこのあたりの詳しい情報は、島根県にある古代出雲歴史博物館に行って実物や考古学的成果を見てみるとより臨場感がわくだろう。
by 須賀の語部 (2012-03-29 18:44) 

t-tomu

興味のある話ありがとうございました。先日3度目の出雲に行きました。四隅突出墳丘墓のある西谷古墳群に立派な博物館が出来ていて、青色のガラス製勾玉には感動いたしました。前回の2回は出雲の西部でしたが、今回始めて出雲の東部、八雲立つ風土記の丘ミュージアムにも行き、出雲の西と東では、その隆盛の時期が違うなと感じました。さて、私は記紀にある神話は史実を反映している(全てが史実でないかも知れれいが)と思っています。ただ古事記と日本書紀では少し話が違っていますが、異説を多数掲げている日本書紀が史実を反映していると考え、日本書紀に即して、日本の国の誕生過程を考えています。それからすると、出雲の国譲り神話は、天照大神・高皇産霊尊の高天原勢力と出雲勢力との争いであったように思えます。出雲風土記の丘にある天魂神社が、高天原から出雲に天降りした天穂日命(出雲国造の先祖)を祀った神社と知り、西出雲と東出雲の違いを納得したしだいです。なお、古事記・日本書紀には、大国主命は素戔鳴尊の子あるいは子孫と書かれており、大国主命と素戔鳴尊が対立した勢力であったようには思えないのです。もちろん、戦国時代を見ると親子での対立は多くありますが。
by t-tomu (2012-03-30 23:04) 

石山

最近知りましたので、お聞きしたいことは、出雲神社は丹波にあり、出雲大社は、出雲にはもともとなかったといいます。杵築大社が最近になって名前を変えたと聞きました。神社の名前は、元の土地の名称というのでしょうか。吉備には吉備津神社というようにですから、島根の出雲は、元は杵築という名称の土地であれば、出雲神話はもとは丹波の神話となるのでしょうか。700年代では撰善言司をもってしても神社名称は簡単には変えられなかったものと思いますが。丹波は吉備津と同時代に分国と名称変更が行われていたと思います。吉備津との関係もあるように思っていますが。
by 石山 (2013-03-24 13:35) 

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