SSブログ

11-6.桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳  [11.邪馬台国は大和に遷都]

桜井茶臼山古墳は全長200メートルの前方後円墳である。古墳の目前には初瀬川を挟んで大神神社があり、御神体である三輪山を仰ぎ見る事が出来る。この大神神社には姫蹈鞴五十鈴姫命の父方の先祖の、大物主大神(大国主命・大己貴命)が祀られており、桜井茶臼山古墳を神武天皇(大彦命)の妃の姫蹈鞴五十鈴姫命の陵とするにはピッタリである。桜井茶臼山古墳は近年再発掘され、81面の銅鏡片が発見され、また200kgの朱で石室が塗られていたことも分かった。銅鏡を多量に副葬し、朱をふんだんに使うことが出来たのも、東征で宇陀の朱を見つけた成果である。桜井茶臼山古墳の木棺から年輪年代を測定するサンプルが採取されている。桜井茶臼山古墳の年代もはっきりするだろ 

桜井茶臼山古墳の銅鏡片が、群馬県高崎市の蟹沢古墳から出土した、正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡と同じであることがわかった。これらの銅鏡は、神武天皇の建国式典のとき、卑弥呼から授かったものであろう。なお、蟹沢古墳近くには、その支流に丹生川のある鏑川が流れている。丹砂の入手のため、卑弥呼の鏡が配られたと思われる。書紀には「崇神天皇の皇子の豊城命は東国を治めさせた。上毛野君・下毛野君の先祖である」と記載している。蟹沢古墳は上毛野国(上野国)にあり、豊城命の東国統治は正始元年銘の三角縁神獣鏡と関係すると思われる。蟹沢古墳から約40キロメートル利根川の下流に、行田市の稲荷山古墳がある。この古墳から出土した稲荷山鉄剣には「辛亥の年七月記す ヲワケの臣 上祖オホヒコ」の金石文字がある。「朱があれば武器を使わないで天下を平定することが出来る」。大彦命(神武天皇)は、それを実行していたのである。 

金綱井に特定した桜井市金屋付近から、南に1.5キロメートル山に向かって進むと、上の宮地区に至る。この地に全長224メートルの前方後円墳メスリ山古墳がある。この古墳は昭和34年に発掘調査が行われた。後円部の墳頂には、直径五0.5~1メートルの円筒埴輪が埋葬石室の周囲に設置されており、その高さは242センチで、日本最大のものであった。長さ8メートルにおよぶ竪穴主石室はすでに盗掘にあっていて、玉杖を始めとする石製品と、三角縁神獣鏡の銅鏡破片が残っていたのみであった。しかし、主石室の横に未盗掘の副石室があり、そこから他に類例のない長さ182センチの鉄製の弓と、長さ80センチの5本の鉄製矢、その他に500本余りの鉄製・銅製・石製のヤリ先などの武器が出土した。これらの出土品は、現在橿原考古学研究所付属博物館に展示されている。 

高市県主許梅が神がかりして、「神武天皇の山陵に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言い、許梅を参拝させ、馬と武器を奉納した御陵こそ、このメスリ山古墳と考える。神武天皇は「戦の神」として崇められており、メスリ山古墳から出土した武器がそれを示している。磐余彦尊(神武天皇)は東征において、墨坂・忍坂から奈良盆地に入り長髄彦と戦っている。この時、磐余彦尊の弓の先に金色の鳶がとまって光り輝き、長髄彦は幻惑されて力戦できなかった。このことからその地を「鳶の邑」と呼び、それがなまって「鳥見」となったとしている。桜井市金屋からメスリ山古墳に至る道の、東側にある245メートルの山が鳥見山である。メスリ山古墳から出土した鉄製の弓は、金色の鳶がとまったという磐余彦尊の弓の逸話と関係があると思われる。磐余彦尊の陵墓としたメスリ山古墳があるこの地域は、古代史で多く出てくる「磐余」の地であると伝えられている。磐余彦尊の陵墓があったからこそ、磐余となったのであろう。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。