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11-3.箸墓古墳の築造年代 [11.邪馬台国は大和に遷都]

三輪山の裾野の纒向の地に、最古の大型前方後円墳・箸墓古墳がある。この箸墓について、書紀の崇神紀に記載されている。「御諸山(三輪山)に住んでおられた大物主神の妻となった倭迹迹日百襲姫命は、夫が蛇である事を知り驚いて座り込み、そのとき陰部を箸で突き死んでしまわれた。そこで大市に葬った。時の人は名づけて箸墓という。その墓は大阪山の石を運んで、昼は人が作り、夜は神が造った。」 

倭迹迹日姫命が卑弥呼であり、箸墓が卑弥呼の墓であるという考えは、大正から昭和にかけて、徳島県の中学教師であった笠井新也氏が論文に発表している。それを支持される学者もいたが、箸墓築造年代が合わない(当時は4世紀初め)と認められなかった。約80年の年月が経過して、再び脚光を浴びる事になった。 

平成21年5月、国立歴史民俗博物館の研究グループは、大和Ⅴ・Ⅵ式土器、庄内0・1・3式土器、布留0・1・2式土器に付着した炭化物の炭素14年代値を測定し、日本産樹木の較正年代曲線上に、土器の相対年代順に炭素14年代値を配置することによって、箸墓古墳の築造(布留0式)は240~260年頃と発表した。この年代感は、従来の年代感と違うと言う事で、考古学会で大きな波紋を引き起こしたが、私は考古学が行って来た緻密な土器の相対年代と、科学的手法の絶対年代がマッチングした、素晴らしい成果だと思っている。 

日本書紀原典の編年では、箸墓は崇神紀10年(259年)造られたとなっており、炭素14年代測定と一致している。箸墓古墳からは吉備の特殊器台が出土しており、初期の大和王権に吉備の勢力が大きく関わっているが、これは壱与の出自によるものと思われる。ただ、倭迹迹日姫命(卑弥呼)が崇神天皇の世に生きていたのではなく、248年に日向で亡くなった卑弥呼の遺骸が大和に運ばれ、箸墓が造られたと考える。


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