SSブログ

11-2.倭国王になった壱与は崇神天皇 [11.邪馬台国は大和に遷都]

魏志倭人伝には「そこで卑弥呼の宗女、13歳の壱与を王に立てて国中が治まった」とある。250年神武天皇は、祖父の彦火火出見尊が、玉依姫が共立され倭国の女王卑弥呼になるとき、自ら身を引いて玉依姫に王位を譲った前例にならって、養女の壱与を倭国の女王に立て戦いを治めた。壱与は、神武天皇が東征の途中、吉備の高島宮に3年居た時(235~237年)、兄の五瀬命が吉備国王の娘を娶り生れた子である。年齢は237年生れで13歳、玉依姫(卑弥呼)の長男の娘で宗女と合っている。 

その後、神武天皇は大和国の王・大彦命として壱与を支えた。日本書紀では、神武天皇を「始馭天下之天皇、始めて天下を治められた天皇」と、崇神天皇を「御肇国天皇、国をお肇になられた天皇」と記載しているのは、これらの事情によるものである。また、大和王権下において吉備の影響が強いのは、崇神天皇(壱与)の出自が、吉備の国王に繋がるためである。 

日本書紀では崇神天皇は、御間城入彦五十瓊殖天皇と呼ばれ男天皇であり、壱与には当てはまらない。ただ皇后は大彦命の娘の御間城姫で、天皇も皇后も同じ「御間城」と言う名が付いている。倭の女王壱与は御間城姫であり崇神天皇であった。壱与の夫である御間城入彦は、神武天皇と姫蹈鞴五十鈴姫命の間に出来た息子・神渟名川耳尊(欠史8代の一人、綏靖天皇)であると考える。御間城入彦が崇神天皇であったとも言える。神武天皇は祖父の彦火火出見尊が、王位を玉依姫(卑弥呼)に譲り、その後息子の鸕鷀草葺不合尊と結婚させたことにならったのである。大彦命として裏方に徹することが出来た理由でもある。

晋書によると泰始2年(266年)倭の女王が晋に朝献し、男女30人・真珠5千・青大勾玉2枚・錦20匹を献上したとある。日本書紀原典では、この記事は崇神17年(266年)に編年されている。崇神天皇を壱与とすると、魏志倭人伝および晋書と日本書紀原典は何の矛盾も起こらない

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。