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8-3.丹砂の探索、吉野巡幸 [8.朱は武器なしで国を平定]

8月2日に宇陀の県の頭目である兄猾と弟猾を軍門に呼んでいる。弟猾はやって来たが、兄猾は叛いたので殺された。その血で染まった地を宇陀の血原という。宇陀市莬田野区大沢には日本第2位の大和水銀鉱山がある。宇陀には丹砂を含む赤地土があり、それが血原と呼ばれたと思う。 

その後、磐余彦尊は軽装の兵を連れて吉野を巡幸している。吉野では井戸の中から、体が光って尻尾のある人が出て来て、井光(吉野の首部の先祖)と名乗った。さらに進むと人が岩をおしわけて出て来て、石押分(吉野の国栖の先祖)と名乗った。川に沿って西に行き、苟苴担の子(阿太の養鸕部の先祖)に出会っている。
 

吉野郡川上村の丹生川上神社上社から、7km上流の井光川を遡ると井光の集落がある。井光神社の奥の院には井氷鹿の井戸と言われる窪地がある。松田寿男氏は「丹生の研究」で「井戸の中から人が出て来て、体が光って尻尾があり」とは、腰に尻当を紐でぶらさげた水銀採掘者が竪坑から出て来た様子としている
 

山を越え尾根を下ると自然銅を産出する三尾銅山がある。松田氏も「岩を押し分け」は
横穴式の坑道から出て来た様子で、三尾銅山としている。三尾から2km下流は丹生川上神社中社、高見川を10km下ると国栖、さらに吉野川を西に20km下ると阿田がある。 

書紀に記載された吉野巡幸のルート、宇陀→井光→国栖→阿太(阿田)→宇陀は、多くの研究者は不可解な行動としている。大和を攻めることだけを考えると不可解な行動だが、丹砂の探索と考えれば十分納得が出来る行動である。

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