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7-7.熊野国はなかった [7.神武東征は史実だった]

「先代旧事本紀」は平安から江戸にかけて、記紀よりも尊重されたが、江戸時代水戸光圀や本居宣長に偽書とされ、現在はあまり信頼のおける書とは考えられていない。しかし、その中の国造本紀は他の文献には存在しない書伝が見られ、資料的価値があるとされている。国造本紀によると、成務天皇の志賀高穴穂宮の時に、熊野国造を定めたとあり、古墳時代に熊野国があったことになる。 

江戸時代に編纂された紀伊続風土記によれば、熊野国は大化の改新(645年・孝徳天皇)時に廃され、紀伊国に編入されたとある。書紀の孝徳記には、大化の改新で国造を再編した記事はあるが、熊野国の廃止についての具体的記述はない。
 

飛鳥時代の692年に持統天皇が伊勢に行幸し、阿胡行宮(志摩国英虞郡)にいた時、紀伊国牟婁郡の阿古志海部河瀬麻呂が、海産物の魚介を献上している。河瀬麻呂は阿古志神社のある二木島湾(尾鷲市と熊野市の間)辺りに住んでいたと考えられている。飛鳥時代中頃は三重県北牟婁郡(紀伊長島町)辺りまで、紀伊国であった事を示しており、熊野国の廃止はこの記事から推定されたのであろう。
 

古墳時代中期から飛鳥時代の中頃までの間、熊野灘沿岸地方に熊野国が存在したとは思えない。熊野灘沿岸地域は紀伊国の海部の部民が漁労を営むために住んだ地方であったと考える。弥生・古墳・飛鳥時代は、熊野灘沿岸地域(那智勝浦・新宮・熊野・尾鷲)、いわゆる熊野地方は、まだ「熊野」と呼ばれていなかった。この時代の「熊野」は、有田・御坊・南部・田辺・白浜であったと考える。

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