SSブログ

7-6.御坊市にある熊野神社 [7.神武東征は史実だった]

島根県松江市八雲町熊野に熊野大社がある。熊野大社は古来より出雲大社(杵築大社)と並んで出雲國の大社と遇されている。766年の「新抄格勅符抄」では、出雲の熊野大社に25戸、紀伊の熊野本宮大社に4戸の封戸を与えている。奈良時代、紀伊の熊野本宮大社より出雲の熊野大社の方が社格ははるかに上であった。熊野大社の社伝よると、近くの村の炭焼き職人が、紀伊国に移り住んだとき、熊野大社の神主が熊野大神の分霊を持って一緒に行き、勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。

和歌山県御坊市熊野
(いや)にある熊野(いや)神社の由緒には「往古出雲民族が植民する際に、その祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の熊野(熊野本宮大社)に勧請する途中、当地に熊野神が一時留まりませる」とあり、出雲の熊野大社の社伝と整合性が合っている。 

荒神谷遺跡に見られる様に、出雲は弥生時代に青銅器が発展していた。炭は青銅を溶かす燃料として必要不可欠なもので、「炭焼き職人が、紀伊国に移り住んだ」とは、「青銅器工人が、紀伊国に移り住んだ」ということではないだろうか。 御坊市湯川町に弥生時代前期に営まれた環濠集落の堅田遺跡がある。この遺跡からは鋳型と青銅を溶かした溶炉遺構が発見され、日本最古の青銅器を鋳造した遺跡と注目された。堅田遺跡は、出雲の青銅器技術集団が移り住んだ遺跡と考える。

 書紀の神代には、少彦名命が出雲から熊野の岬の粟島に行ったと書いてある。この粟島は、海南市下津町にあり、祭神を少毘古那彦神とする粟島神社がある。少彦名命こそが出雲から青銅器を伝えた技術集団の長であったと考える。 

熊野を音読みすると「ユヤ」、堺市や田辺市(旧大塔村)には熊野(ゆや)の地名がある。御坊市熊野(いや)は熊野と呼ばれていたが、熊野詣が盛んになって、紛らわしいので音読みされた時、熊野(いや)と転訛したと思う。堺・御坊・大塔は熊野古道の道筋にある。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。